『マスタリー 仕事と人生を成功に導く不思議な力』
凡百の自己啓発を超えた、「未来を変えたい人」の必読書
著者のロバート・グリーンはアメリカの作家。現在56歳の熟年イケメンである。大学卒業後は建設労働者や雑誌編集者など80もの仕事を経験した。1998年に“The 48 laws of power”(邦訳『権力に翻弄されないための48の法則』)で作家デビュー。この処女作はアメリカ国内だけでも120万部のベストセラーになり、24ヶ国語に翻訳されている。
『マスタリー』はグリーン5冊目の最新作だ。グリーンの作品の特徴は自己啓発書でもないし、ビジネス書でもない。歴史読み物でもないし、評伝エッセイでもない。制御された薀蓄ともいうべき、独特なスタイルを持つところにある。歴史上の人物の生きざまなどから、読者の未来をより良く変えることができるエッセンスを抽出するのが眼目だ。
原著のタイトルになっているmasteryは名詞である。熟達や精通と翻訳されることが多い。訳者は「奥義をきわめること」と翻訳している。辞書を調べるとmasteryには別の意味もある。「〜に対する勝利」「〜の支配権」などだ。軍事用語である制空権の英訳はmastery of the airだ。著者はmasteryになることが勝利への近道であり、状況をコントロールするための要件であると考えているようだ。
著者はほとんどの人が知性のひらめきを感じた経験があるはずだという。そのひらめきはある種の緊張状態、たとえば締め切りが迫っているとか、なんらかの危機に直面しているときなどに感じることが多いという。不断の努力で仕事を続けた結果、ひらめくこともあるという。
私がこの原稿を書いているのは締め切りの2日前。それまではまったく筆が進まなかった。しかし、切羽詰まってくると頭が冴え、テレビを見ながらでも文章が湧いてくる。まさに知性のひらめきが降臨してくる感覚だ。しかし、それではいつかは紙面に穴をあけてしまいそうだ。いつでも必要なときに頭が冴えわたるようになれば、もっと楽な人生になりそうだし、なによりも良い仕事を残すことができると思うのだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチやアインシュタイン、ダーウィンやモーツァルトなどにとっては、その知性のひらめきは一瞬のことではなく、生活様式であり世界観だったという。まさに究極の力である。わたしたちがその何割かでも手に入れることができれば、人生は大きく開けてくるに違いない。
かれら天才たちはどのようにしてその境地に達したのだろうか。著者はその最初の過程が修業だという。学習でも自己研鑽でもない。修業だ。師の姿をじっくり見ること、時間をかけて技術を習得すること、そして恐る恐る自分を試してみることだ。その結果として、そのスキルの特定要素が脳に固定され、目の前の細目ではなく、全体の鳥瞰図をみることができるようになるというのだ。
モーツァルトが作曲をはじめてから、アインシュタインが思考実験をはじめてから、それぞれ10年後に大作や相対性理論を発表している。著者によれば彼らが早熟の天才に見えるのは、じつは修業を始めたのが非常に若かったからだという。もちろん、彼らは真の天才であり、ある意味で神の領域に近づいた人々だ。しかし、一般人でもいまが修業期間であることを認識して、飽きずに十分な時間を一つのことにかければ、マスタリーの域に近づくことができるかもしれないのだ。
私は書評をまとめた本をこれまでに数冊上梓しているのだが、よく読者から「面白い本を選ぶ方法」について聞かれる。そのたびに絶句する。書店をブラブラしていると、この本は絶対面白いと、表紙を見るだけで確信を持つことがある、などというのは答えになっていないからだ。
ビジネスマン時代に大量の本を読んでいた。20年間にわたり毎日最低でも2時間だ。結果的に著者がいう1万時間というハードルをどこかで超えたに違いない。結果的に本に関してはある意味でマスタリーのとば口に辿り着いたに違いない。いつの間にか書評も練習なしで書けるようになっていた。
本書のレビューも感覚的にお引き受けした。ゲラをちらっと見せていただいて、凡百の自己啓発書ではなく、多くのマスタリーたちの人生から、体感として生き方を学ぶことができる書であると確信したのだ。それは自分のためでもあった。前述した修業とはマスタリーになるための、最初の過程にすぎない。著者はさらに創造的活動期、理性と直感との融合などの過程があるのだという。なるほど、自分はまだまだだ。伸びしろがあるのだ。これからの人生が楽しみだ。それゆえに、本書は若者から中高年まで、自分の未来をより良く変えたい人にとって格好の読み物だ。親子で読める熟達の書だ。
(『波』7月号掲載)