本書は2015年2月にサイモン&シュスター社から出版されたばかりの『Red Notice: A True Story of High Finance, Murder, and One Manʼs Fight for Justice』の全訳である。
著者のビル・ブラウダーは、ロシアを拠点に投資事業を展開していたエルミタージュ・キャピタル・マネジメント社の創業者であり最高経営責任者(CEO)である。同社は、共産主義から資本主義へと移行する過程で混乱を極めていたロシア市場に参入し、多額の利益を上げた。しかし、その活動はやがてロシア政府の反感を買うところとなり、ブラウダーはロシア入国を拒否されることになる。
本書では、冒頭のかなりのページを割いて、いっぷう変わった家庭に生まれたブラウダーがロシアで投資家として成功を収めるまでの前半生をつづっている。有名投資会社の業務やロシアにおけるエルミタージュの投資戦略などは、投資に興味がある読者には何らかの参考になるかもしれない。だが、これらはすべて序章に過ぎない。本書の主要テーマとなるのは、ロシアの不正・腐敗・汚職、およびそれとの対決である。
対決の構図は二つある。第一に、”オリガルヒ”との対決である。
ロシアでは共産主義政権が崩壊して以来、オリガルヒと呼ばれる新興財閥が頭角を現してきた。経済自由化で成功を収めた実業家やかつてのエリート層が、多数の国営企業が民営化される際に莫大な資産を手中に収め、ロシア経済を支配する一大勢力となった。こうしたオリガルヒは、政府や官僚機構と結びついて影響力を拡大させ、汚職や不正に手を染めていく。
このオリガルヒが、やがてエルミタージュに牙を剝いた。最初の相手は石油会社シダンコのウラジーミル・ポターニンだ。自社の株式で巨額の富を得ているエルミタージュに不満を抱き、株式を希薄化してその価値を引き下げようとしたのである。株式の価値を下げれば自分も犠牲になるのに、一体なぜそのような真似ができるのか?
本書では、その答えを探るヒントとして、ロシア人の心性のひとつを明かす興味深い寓話を紹介している。村人の前に魔法の魚が現れ、望みのものを与えると言う。だがこれには一つだけ条件がある。望みのものを受け取るとき、隣人はそれと同じものを二倍手にすることになる。それを聞いた村人は「それなら、私の片方の目をくり抜いてください」と言う。つまりポターニンは、外国人投資家に甘い汁を吸わせるぐらいなら、自分が損をしてでもエルミタージュに損害を与えてやりたいと考えたのだ。にわかには信じがたい話である。
「郷に入りては郷に従え」ということわざがあるが、こうしたロシア人の考え方の一面を知らなければどんな目に遭うかわからない。金銭を失う程度ですめばいいが、下手をすれば命を失うことにもなりかねない。まるで映画や小説のような話だが、それが現実なのだ。投資機会の調査をしていたブラウダーは、その過程でオリガルヒが経営する大企業の不正を知ると、それを告発する行動に打って出る。それが株主行動主義によるものなのか、単なる善意によるものなのかはわからないが、いずれにしても危険な行為であることに変わりはない。そんな行為がやがて、第二の対決を生むことになる。
それは、腐敗官僚との対決である。ここにきて物語は、金融・経済ドキュメンタリーから政治・人権ドキュメンタリーに一転する。
エルミタージュは、ロシア警察の強制捜査を受ける。そして見も知らぬ犯罪者の名義で企業を乗っ取られ、一方的に多額の負債を背負わされてしまう。またしてもにわかには信じがたい話だが、ロシアではこうした警察の行為は珍しいものではないらしい。汚職監視に取り組む国際的な非政府組織トランスペアレンシー・インターナショナルの推計によると、ロシア企業の3割以上がこうした警察の捜査対象になっているという。誰の命令で行動しているのかは知らないが、個人的な利益のためだけにこれほどの悪事を平然と行なえる人間がいることに戦慄を覚える。
しかも、こうしたでっち上げの犯罪であれ、いったん警察に捕まってしまえば、有罪が確定する確率は99.5%に及ぶ。裁判官でさえ買収されているのだから、裁判などあってないようなものだ。ブラウダーの運転手を務めていたアレクセイが、道路で倒れている人を見て無視を決めこもうとしたのも、これでは仕方がないのかもしれない。警察も司法も当てにならないとなれば、もはや市民が悪に立ち向かうよりどころはどこにもなくなってしまう。トランスペアレンシー・インターナショナルが発表した2014年の腐敗認識指数を見ると、ロシアは175カ国中、第136位という低さである。
入国を拒否されたブラウダーはともかく、そのほかのエルミタージュの関係者が国外に脱出したのは賢明と言えるだろう。だが一人、自分の信念を貫き通す人物がいた。セルゲイ・マグニツキーである。マグニツキーは、自分は何もしていないのだから罪に問われるはずがないと主張して堂々と警察に捕まり、ソルジェニーツィンのような監獄生活を強いられたあげく、獄中で死に果てる。
マグニツキーは生前、「ロシアにハッピーエンドはない」と語っていた。そう言うマグニツキー自身、最後までそんな運命に抵抗しながら、結局は悲惨な最期を遂げた。確かに、著名なロシア文学を思い出してみても、これといったハッピーエンドは見当たらない。ロシア人の心には一種のあきらめの気持ちが刻み込まれてしまっているかのようだ。あの国には、アメリカンドリームとは正反対の心性が育まれるほど、権威に逆らえない伝統や風土があるのだろうか? そのために、政府や官憲の不正や汚職が蔓延しているのだろうか?
だが本書には、こうしたあきらめの気持ちとは無縁の人物が登場する。ほかでもないビル・ブラウダーである。この男は、生来わからないことは徹底的に調べないと気がすまないたちなのだろうか、投資機会を見つけると、それが安全な投資先なのかどうかを納得のいくまで調べ上げる。自分を陥れようと罠を仕掛ける者がいれば、そのからくりを解き明かそうと、徹底的な調査を行なう。かかわるべきでない人物が相手だとわかれば、逃げるか泣き寝入りするのが普通だろう。だがブラウダーは、危険を知りながら無鉄砲にも前へ進み、事実を突き止め、抵抗を試みる。セルゲイ・マグニツキーが獄死すると、その正義を実現するために東奔西走し、ロシア側の妨害に遭い、命の危険を感じながらも、最終的にはマグニツキー法成立にこぎつける。このあたりの展開は、一種のサクセスストーリーのようでさえある。この行動力、このバイタリティは、読む者に勇気を与えてくれる。それは、暗澹たるロシア社会の現実に対する希望でもある。
ロシアで不正が横行していることは、誰もがある程度は知っているだろう。だが、架空の物語ではなく、現実の物語としてこうしたロシアの暗部を追体験する機会などそうはない。夜中にむち打ちの音を伝えるボイスメールを受け取ったり、関係者が謎の死を遂げたりする事態など、想像できるだろうか? だがロシアにも、セルゲイ・マグニツキーを始め、ブラウダーに手を貸してくれる法律家やジャーナリスト、人権活動家がいる。街頭でデモを行なう市民もいる。こうした一人ひとりの活動がやがて実を結び、ロシアの状況が改善していくことを願うばかりである。
本文中にも登場したRussian Untouchables のサイトは、今も積極的に情報を発信している。マグニツキー事件に関連する次長検事や地方裁判所判事を取り上げるなど、本書の内容を上回る情報が事細かに記されている。本書の刊行を経て、今後もますます活動を活発化させていくことだろう。勇気をもって本書を出版したビル・ブラウダーには、不慮の死を遂げることなく生をまっとうし、自身の正義を実現してもらいたい。この邦訳がその一助になれば幸いである。
なお、本書は三名の共訳であり、冒頭から第12章までを笹森、第13章から第27章を石垣、第28章以降を山田が訳出した。
2015年5月 山田 美明