正直、リベラルとか保守とか、その手の話からは距離を置きたいというのが本音である。一言で言えば、ややこしいからだ。左右を問わず角度のついたスタンスからの発言は力強いし、もっともらしく聞こえることも多い。そんな中で、内側のスタンスから中庸なことを物申しても、無力感が伴うだけだろう。その実行力はともかく、立ち位置の格差というものが確実に存在するのだ。だからサイレント・マジョリティが、大量製造されていく。
これは言い替えれば、「言葉が、議論する力を失いつつある」状況とも言えるだろう。見聞きする多くの言論は、何を軸に議論をしているのか、そういったプロトコルがあまりにも見えてこない。そもそも一人の人間と一つの思想が、一対一対応しているという前提にも無理があるのではなかろうか。
このような混迷きわまる政治哲学の現状を鮮やかに喝破してくれるのが、本書『21世紀の自由論』だ。ジャーナリスト・佐々木俊尚氏が、政治哲学の「これまで」と「これから」を、社会の変化という観点から論じている。ITが進化してアーキテクチャが変われば、集団のあり方が変わる。集団のあり方が変われば、政治も変わるはず。このようにITが社会に目まぐるしく変容を迫るなか、現在の政治哲学の有効性とは、いかほどのものなのか。
で、結論から言うと、本書ではあらゆる政治勢力が木っ端微塵にされていく。日本のリベラル、保守、欧米のリベラリズム、コミュニタリアニズム、それぞれの劣化の要因が歴史的な経緯から紐解かれるのだ。それどころか、経済成長のためには民主主義が不可欠であるという考え方まで否定されている。
そもそも「リベラル」とは何なのか?そこが議論の出発点だ。このパートを読むだけで、いかに現在の「リベラル」が迷走し、理解しづらいものになっているかがよく分かる。リベラルの指す意味は時代とともに変わっているし、欧米と日本の「リベラル」もまた、大きく異なるものであるようだ。
ここから見えてくるのは、日本の「リベラル」の特殊性である。著者によれば、彼らが拠って立つのは思想ではなく、「反権力」という立ち位置のみであるという。だから日本の「リベラル」と欧米における保守の主張が非常に似ているケースすら、数多く散見されるのだ。
一方、これら「リベラル」における矛盾は、保守の矛盾にも起因する。もし保守に矛盾がないのであれば、単に反対しているだけのリベラルにも、矛盾は起きないはずだろう。その要因としては、保守勢力が依拠する「伝統と歴史」の根拠が希薄であるということ、そして日本特有の問題として「親米保守」というねじれが存在することが挙げられている。
そしてリベラルの本場ヨーロッパに目を転じると、こちらも日本以上にリベラルの思想が駆動しなくなり、明らかに行き詰まっている。ヨーロッパの理念の中心にあるはずの「普遍的なもの」が普遍的でなくなってきているからだ。普遍的なものがないにもかかわらず、自由な選択だけを求められることは、むしろ「不自由」と言った方が近い。
さらに、リベラルの代替として台頭してきたコミュニタリアニズムにも欠陥はある。それはウチとソトという概念からくる、排除の論理である。たとえウチにいたとしても、息苦しさや同調圧力が付き纏うことは、日本の農村共同体などを見れば明らかであるだろう。
ここまでくると本書は、冒頭で広げた風呂敷をどのように畳むのかということにも興味が出てくる。つまり自由であることの困難を押し付けるリベラリズム、排除と息苦しさのコミュニタリアニズム。そのどちらでもない、第三の方向はあるのかということである。最終章ではこれに答えるべく、社会を担うために我々がどうあるべきかについて言及されている。
一つは、リーン・スタートアップにもよく似た「適応」という戦略を取ることである。そもそも移行期には、政治哲学が固定的である必要はない。ゆえに、何が理念として正しいかという議論よりも、目標へ向けて何を為すべきかというリーンでリアルな戦略が求められるのだ。
そしてもう一つが、理と情の再分配である。多くの議論においては、理と情を代替させたり、対立させたりするから、話がおかしな方向へと進んでしまう。これを補完という視点に立つことで、リアリズムという冷たい論理の中に「情」を持ち込むのだ。むろんどの領域に「情」を充てるかという議論はあるものの、それこそ理で判断していけばよい。
この背景には、ネットの存在によって引き起こされた共同体の変容がある。かつて会社や地縁・血縁に限定されていた共同体が更に細かくレイヤー化し、しかも簡単に組み替えることも出来るのだ。これらを漂泊的に移動するあり方は決して「自由」ではないが、自由という選択肢から解き放たれようとする「非自由」であり、苦痛さのない「新しい自由」なのだと著者は言う。
それぞれの共同体の範囲をどのように捉えるかによって、人は保守にもなるし、コミュニタリアリズムにもなる。その捉え方こそが、未来の議論の核心へ迫る。このようにネットが引き起こしたコミュニティの変化と政治哲学の話が結びついていく様が、本書の真骨頂と言えるだろう。
いずれにせよ、政治哲学に無関心でいられる時代が終焉を迎えているということなのかもしれない。自分が所属する複数のコミュニティをどのようにマネジメントするかということの延長線上に、政治哲学は存在する。そこでは、これまで語るべき言葉を持たなかった中間層が、新しい政治哲学のイノベーションを牽引するのだ。
ともすれば縁遠い存在になりがちな政治哲学というテーマを、自己啓発書のようなメソッドで個人の生き方の問題へと着地させる。「いつか、どこか、誰か」の話が、「今、ここ、自分」へと置き換わる。これだけで、サイレント・マジョリティと呼ばれる多くの人にポジティブな気持ちを呼び起こしてくれることだろう。
アラフォーになって言うようなことでもないのだが、少しだけ、だけど確実に、大人になれた気がする一冊だ。