『クリミア戦争』by 出口 治明

2015年5月23日 印刷向け表示
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クリミア戦争(上)

作者:オーランドー ファイジズ 翻訳:染谷 徹
出版社:白水社
発売日:2015-02-27
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本書は、75万人の兵士が戦病死した19世紀の世界大戦、クリミア戦争の全貌を描いた意欲作である。上下2巻の大作だが、構成も緻密で、口絵や図版も多く、文章もとても読み易い。戦史としてとても面白く、一気に読み終えた。

エルサレムの聖墳墓教会における東方教会とローマ教会の争いから幕が上がる。第3のローマを自称する東方教会の護り手、ロシアは、大帝エカチェリーナ(2世)以来、イスタンブールを解放しエルサレムに至る大帝国を樹立するという夢を見ていた。しかも、当時のロシア皇帝ニコライ1世は、「ドン・キホーテが専制君主になったような人物」であった。

一方、連合王国にとって、オスマン朝は最も重要な輸出市場であり、またロシアは、インド権益を侵そうとするグレート・ゲームの主敵に他ならなかった(ロシアの脅威に対抗するために連合王国は緩衝地帯戦略を採用し、アフガニスタンに侵入する)。ローマ教会の護り手を自認し英仏協調を唱えるナポレオン3世の政府にとって、専制ロシアは自由の敵であり何よりもナポレオン1世を敗走させた仇敵であった。オーストリアは、ロシアの南下と呼応した帝国内のスラヴ人の蜂起を何よりも恐れていた。

こうした構図の中では、列強の草刈り場であるオスマン朝を「十分に弱体化させ、その状態で生かしておく」ことが列強にとっては一番都合が良かった。なぜなら、何か事が起これば、ポルト(オスマン政府)は、列強のいずれかに支援を要請せずにはいられないからである。

1853年、ニコライは、聖地パレスチナに関するロシアの権利回復を求めて、イスタンブールに特使を派遣する。特使は、ロシアが聖地のみならずオスマン朝全域の正教徒の利益を代表することを求める。明らかな内政干渉だ。当然、ポルトは拒否する。十字軍を意気込むニコライは、オスマン支配下のドナウ両公国(ワラキア、モルダヴィア)に軍を出す。

オスマン朝の世論は硬化し、ポルトはロシアに宣戦を布告する。シノープの海戦が起こり、ロシア艦隊がオスマン艦隊を「虐殺」する。ジャーナリズムに煽られて世論が沸騰した英仏はロシアに宣戦布告せざるを得なくなる。こうして世界大戦が始まったのだ。

世論が戦争を引き起こす、これは人類史上、初の経験である。戦端が開かれ、ドナウ両公国からクリミア半島のアリマ川(今もパリにはアルマ橋が残る)、セヴァストポリの包囲戦へと戦線が移動していく。

ワラキアではトルストイが従軍を始める。連合国(英・仏・オスマン)の主力はフランス軍、ズアーヴ兵(北アフリカ人)の高い能力が発揮される。イタリア統一を目指すサルデーニャが英仏の歓心を得るべく参戦する。ナイチンゲールの献身、戦場での手術に麻酔術を使用した最初の外科医、ピロゴーフはトリアージュ(患者の区分。助かる重傷者、軽傷者、見込みのない重傷者)をセヴァストポリで実現する(因みに、クリミア戦争でよく言及されるノーベルやシュリーマンの記述がないことも、著者の見識。彼らは単に金儲けを行っただけで、戦争の大きな流れとは無関係)。

悲惨な戦争ではあったが、騎士道精神は残っていた。死体を回収するための休戦や兵士の交流も行われていたのである。11か月に及ぶ包囲戦の後で、戦場鉄道の開通で大量の物資補給に成功した連合国軍が、セヴァストポリを陥落させる。産業革命を経た国は強かった。しかし、ロシア軍がカフカスの要衝カルスを奪ったため勝者はいなくなった。

こうしてパリ和平会議が開かれ、1856年に戦争は終結した。ロシアは懲罰を受けたが、「長期的に見て最も多くを失ったのは、ほとんど参戦しなかったオーストリアだった」と著者は鋭く指摘する。オーストリアは武装中立で連合国を利したため、保守同盟の相手国だったロシアを失い、孤立を深めていくのである。

戦後、クリミア半島から、ロシアの報復を恐れた大量のタタール人(イスラム教徒の彼らは連合国軍に協力)が逃げ出し、その後にロシア人が入植、クリミアは初めてロシア人の国となった。プーチンのクリミア編入や西欧のロシア不信が、クリミア戦争の再現であるかのような錯覚を覚えた。基本的な対立の構図は、ほとんど変わっていないのである。

本書を読み終えて、クリミア問題の理解がより深まったように思われた。1つの戦争を、当時の人々の肉声を丁寧に掘り起して、360度評価で再現しようとした著者の意図は十分達成されているのではないか。

出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら

*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。   

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