僕は、本と旅の他にはさしたる趣味がない。初めて訪れた異国の町、特に下町をあてもなく歩き回るのが何よりも好きだ。そんな時、岐路にさしかかると、雑然とした方、怪しげな方に自然と足が向く。人間の都市とは何か、ジェイン・ジェイコブズの直観は正しかったのだ。20年ほど前、仕事で毎月のように北京に通ったことがあった。胡同と出会い、よく「胡同」歩きをしたものだ。本書は、その胡同の魅力に惹かれ(「胡同が私を呼んでいる」)、日本の大学を辞めて胡同に移り住んだ著者の15年の暮らしの記録である。添えられたたくさんの写真が、何故かとても懐かしく感じられた。
1部は「胡同が消える」。クビライの時代から700年もの間、四合院と呼ばれる伝統的な民家を中心に人々が日々の暮らしを積み重ねてきた路地や横丁、それが胡同だ。胡同の語源はモンゴル語の井戸ではないかと著者は考える。水を重視したクビライ、井戸を共有した庶民の暮らし。しかし、高度成長を続ける北京では、急激な都市開発の波が押し寄せ、胡同が次々と消えて行く。名目は「明清時代の景観の回復」だが、「今思えば、(胡同)ベスト3のうち、当時の面影を残しているものは1つもない」。社会主義国家であるが故に、庶民の抵抗も実に強かではあるものの地上げは簡単だ。著者は、伝統的な建物や街並みが壊されるだけではないという。「土地に刻まれた記憶、人の生活の匂い、人と人とのつながり、そして自分をふと見つめ直したくなった時の心の拠り所までが、槌音の下、音なくして消えている」。
親切の押し売りが大好きな下町北京っ子に可愛がられた著者は、消え行く胡同の記憶の断片を残そうとする。それが2部「胡同を旅する」だ。まず小吃(軽食)に代表される胡同の味(「民は食をもって天となす」)、羊肉を買うなら羊肉胡同だ。こおろぎは「こおろぎ相撲」を闘う力士として人気だ。賄賂に最適な骨董、歴史を変えた名妓、燕の李三(北京版鼠小僧)、明代版KGB東廠、紫禁城を照らした蝋燭(胡同)など興味深い物語が次々と紡がれる。そして最後に文化財保護を目指すNGOや「老北京ネット」が紹介される。「政治体制がちがっていても、人の暮らしに必要なものは変わらない。暖かい家と食事、そして心を許せる友だち」、その通りだと思う。壊された胡同の飲食店にあった張り紙は述べる。「食べるものを食べ、飲むものを飲んで、何があってもくよくよしない。お酒は控え目にして、時計を見て今の1秒1秒を気持ち良く過ごそう。お兄さん、お姉さん、兄弟たち、楽しいのが一番だからね!」このお店に行きたかったと思うのは決して僕だけではないだろう。落ち着いた著者の文章が、ささやかな抵抗の記録を際立たせる。
普通の中国の生活人の体温を届けたいという孫歌の「北京便り」も、同様だ。日本人を乗せないというタクシーの運転手に著者は問いかける。「その日本人が中国人と結婚していたら?」「中国が好きな日本人なら?」彼は黙って答えてくれなかった、という。お国自慢、料理自慢も面白い。上海から広州に向かう著者は「たくさん食べてね。広州についてからはろくなものが食べられないから」と友人から言われる。そして、広州に着くと「おなか相当空いたでしょう。(上海には)美味しい料理がないからね」と言われるのだ。同窓会も日本と同じ。卒業してから30年、「ところが、テーブルを囲んで座った瞬間、なぜか大学時代の雰囲気が自然に蘇る」。漢方の考え方「風邪を通過させる」、「病気と闘うより、病気と平和共存するという考えで、風邪によってむしろ体を更新する」、なるほどと唸ってしまった。この2冊には、普通の市民の暮らしと市民が胸襟を開いて語り合うことの素晴しさが、ぎっしりと詰まっている。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。