ルーシー・ブラックマン事件は、2000年7月に元英国航空の客室乗務員 ルーシー・ブラックマンさんが失踪し、神奈川県三浦市の海岸近くにある洞窟でバラバラ遺体で発見された事件である。
この事件については、これまでにも様々な報道がなされてきた。だが、それら一つ一つを時系列で丁寧につなぎあわせていっても、決して全貌は見えてこない。この事件に関わる実に奇妙な人物たちの存在、そして社会の表と裏が複雑に入り乱れた彼らをとりまく状況を考えれば、無理もないだろう。六本木のホステス、犯人の生い立ち、SM愛好家、便利屋、警察のシステム…。
おそらく犯人でさえ知り得なかったであろう事件の全貌に挑んだ著者は、日本在住歴20年に及ぶ英「ザ・タイムス紙」の東京支局長を務める人物。10年以上の取材期間をかけて見えてきた、ルーシー・ブラックマン事件の真実とは一体何だったのか?
この事件を紋切り型のフレームに当てはめてみれば、以下のように記述することも出来る。
借金を抱えた水商売の外国人女性が、猟奇的な方法で殺害された事件。被害者の両親は離婚しており、父親にはソシオパスの傾向が見られた。犯人はSMの趣味をもつサイコパスであり、警察は威信を、検察はメンツをかけて動くも、捜査は難航した。
だが著者は、この手の安易なラベリングを徹底的に回避する。
21年というただでさえ短かかったルーシー・ブラックマンの人生。だが東京に来てから殺されるまでの期間は、わずか59日。そのほんの一部分の出来事だけを切り取って、ルーシー・ブラックマンの人生を憐れで可哀想な被害者と規定することは、はたして妥当なことなのか? 著者の思いは、そんな疑問に端を発する。
そして彼女をニュースの主人公としてではなく、一人の人間として見られるようになるまでには、人々の間で事件が風化するほどの長い歳月と、気の遠くなるような膨大な量の取材が必要であった。
世の凄惨な事件は、数多くの事象が複雑に絡み合って起きるケースが多い。それは現実の上に、様々な虚構が覆いかぶさっていることによるものだ。本書の真骨頂は、この虚構を現実の対極としてではなく現実の一部として描いている点にある。つまり、虚実を現実として描き、真実に近づいていくのだ。
全ては六本木のナイトクラブから始まる。そこは水商売という、現実と虚構が入り混じった世界への入り口であった。ホステスと客の関係は、それぞれが役割を演じるロールプレイング・ゲームのような側面がある。男女が恋愛関係にあるかのように振る舞い、女は何も与えることなくお金を獲得しようとし、男はクラブの勘定だけでなるべく多くを獲得しようとする。
だがゲームには須らく、ルールというものが存在する。客とホステスを含めた全員が、一線の引かれた場所や、どんな行為が一線を超えるのかを暗黙的に了解しているのが通常だ。そして何かトラブルが起こるとすれば、そこにはルールに関する認識の相違や、明確なルール違反が存在する。ルーシーの失踪も、店外デートの最中に起こった出来事であった。
さらに役割を演じるというゲーム性は、水商売のシーンのみに留まらず、この事件の節目節目で大きな意味を持っていた様子が伺える。日常生活の中でよく見られるほんの些細な虚構。それは運とタイミングが異なるだけで、底なし沼のような黒い迷宮を構築してしまう。
ルーシーの失踪後、ほどなくして彼女の父親が来日する。記者会見に応じた父親もある意味、一つの役割を演じるゲームに興じていた。記者たちに細かい情報を提供し、節度あるコミュニケーションをする。夜には記者たちと夕食を食べに行き、記者会見では憐れな被害者の父親像を演じる。そこにはルーシーの失踪が少しでも多く報道され、サミットで来日するプレア首相(当時)を巻き込むための、したたかな計算があった。
犯人へ近づくための重要な手がかりは、SMという予想もしない角度からもたらされる。ある愛好家が証言した一人の男。彼は、背が高くて胸の大きな外国人ばかりを誘拐し、専用の地下牢に連れ込み、拷問して殺すまでの一部始終をビデオカメラに収めたいと周囲に漏らしていたという。さらに関係者の一人が人糞を口に詰められるという異様な姿で死んでいた場所の傍らには、ルーシーの尋ね人のポスターが貼られているのも見付かる。
そしてついに、容疑者として一人の男が特定された。キム・ソンジュンとして日本に生まれ、小学校に上がる時には金聖鐘という名前を変え、整形手術を受けた高校時代には星山聖鐘として振る舞い、後に日本国民・織原城二へと変身した人物。
明らかになった彼の性癖は、衝撃的であった。彼が名付けた「征服プレイ」なるもの。17歳以降の全ての性生活について詳細を記録してきた彼は、当然、その一部始終もカメラで記録していた。薬物で女性を昏睡状態に至らしめ、覆面を付けた状態で様々な器具を使い凌辱の限りを尽くす。
彼の毒牙にかかった女性は150人以上とも言われ、外国人女性は皆ホステス風であったという。被害を受けたあとに警察に通報した女性はほとんどおらず、その理由は皆同じであった。まずビザの問題。さらに意識を失っている間、自分の身に何が起きたのか正確にはわからなかったこと、また頼りになる人物が周囲にいない異国の地という環境も拍車を掛けた。
やがて舞台は法廷へと場面を映す。ここでも検察と被告の間には頭脳戦、心理戦といったゲーム性が見られた。織原は法的能力、資金力、技術力、調査力の限りを尽くして公判に臨み、その様は全てをコントロールしたがる映画監督のようであったという。精巧に作り上げられた虚構の狭間に、核心的な真実を織り交ぜることで、彼は検察や遺族を動揺させていく。その結果、第一審では、誰もが予想し得ない判決が下されるのだ。
本書はミステリー小説のような体裁をとりながら、事件の全貌が描かれる。形式そのものが虚実ない交ぜの事件内容を体現化しているようでもあり、興味深い。
ページをめくる度に、事件の異様さだけが明確になっていく。局面毎にゲームが繰り広げられるものの、勝者の姿はどこにも見あたらない。事件の全貌に解はなく、複雑なものが複雑なままに提示される。この筆致の真摯さだけが、きっと読者を迷宮から救い出してくれることだろう。
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