遥か昔の物語には、何故かロマンをそそられる。チョガ・ザンビールのジッグラトに登った時、また、殷墟の王墓を訪ねた時の、あの高揚感は今でも忘れることができない。本書は、甲骨文字の第一人者が、膨大な数の甲骨文字を読み解いて中国最古の王朝、殷(商)の実像を詳らかにしたものである。殷はBC16世紀から500年以上続いた王朝である。前期の200年は安定して領域を拡大したが、中期の100年は分裂して王統が分れ、武丁によって再統一され後期の200年が始まった。僕は、殷の主神はずっと「帝」だった、と思い込んでいたが、著者によると、自然神と祖先神に加えて、武丁の時代に「帝」が創作されたらしい。武丁は、かなり長命だったため病気も多かったようで、目や歯などの不調を記した記録が残されている。
甲骨文字は殷王朝の後期に作られ、占卜に用いられた。彼らは占いによって政策を決めていたが、事前に甲骨を加工して「吉」が出るように操作していた(なるほど!)。また、偏執的なまでに壮麗な青銅器を作って酒や音楽などを神々に捧げ、家畜や人間を生贄として殺していたのである。著者は、王墓(遺跡)と甲骨文字を照合することによって、殷後期の王が、史記が記す12名ではなく8名であることを実証する。
殷については、酒池肉林に耽り殷を滅ぼした暴君紂王の逸話がよく知られているが、これは、殷滅亡後1000年以上を経過した後世の文献資料(「史記」など)に依る創作である。甲骨文字を分析すると、紂王(帝辛が本名)は、むしろ有能な君主であって、集権化を進めたため反乱を招いた様子が窺える。著者は、後代の文献資料を離れて同時代資料である甲骨文字の分析を重視すべきだ(本国の中国では伝統的に文献資料の権威が強く、甲骨文字が軽視されている)と指摘する。甲骨文字の解読により、当時の祭祀儀礼や地方領主との戦争の様子が鮮やかに再現され、王の系譜が合理的に復元されるのを読むと、複雑なパズルが解けたような爽快感が味わえる。蜀を望めば、王畿内に地方領主をいわば参勤交代させていたという平勢隆郎説についての見解が僕は欲しかった。
殷を継いだ周についても、目から鱗の落ちる指摘がなされている。「西周代の金文のうち、召公の配下が作ったものは殷系の特徴を持っており、これも召公がもとは殷系の勢力だったことを示している」。なるほど、そうだったのか、周公と並ぶ召公が。帝辛の集権化の方向性は周に継承された。周は、封建制と貴族制、農奴制を実施することで、支配体制を安定化させた。そして周の王は、周の主神である「天」の子息であるという意味で「天子」と呼ばれるようになったのである。
著者は、「若いころから、現代社会のいびつさに不満があった。これほどまでに文明が発達していながら、なぜ社会を合理化できないのかという疑問を持ち続けていた・・・しかし・・・様々なことを学んでいくうちに、現代の社会も全体として見れば、比較的丸く収まっていることに気づかされた」。そして、こう結論付ける。「人間の生贄などはいびつな行為であるが、全体としては古代文明なりの合理性によって殷王朝は維持されていた」、「歴史を学べば、人間社会とは、いびつな欠片が集まってひとつの安定状態を形成するものだ」と。その通りであろう。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。