本書は国家や民族、宗教という枠組みを越えた1人の女性の話だ。彼女の生き様には心がぱっと晴れるような力強さがある。そして、彼女の人生を追うことは、日中韓の複雑な政治背景と、日本が忘れかけている負の歴史、また中国で弾圧されているキリスト教信者の見えざる困難を知るきっかけとなった。
著者は『絶対音感』や『セラピスト』を以前出版された最相葉月さんだ。駅のホームで中国からの留学生に偶然出会い、アルバイトに誘ったことが本書のきっかけとなった。その女の子は黒龍江省ハルビン市出身の朝鮮族で日本の大学に入るために日本にやって来たと言う。
ナグネとは旅人という意味である。
彼女はなぜはるばる日本にやって来たのか。
朝鮮人の中国への移住は、日本が朝鮮半島を占領し、満州国を統治した時代にピークに達した。彼女の祖父母もこの時代に当てはまり、当時住んでいた村がダムの建設で水没したため満州への移住を強いられたのだ。
彼らが移住したハルビン市郊外には、現在「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」が建っており、ここは関東軍が細菌兵器の研究開発を行った場所である。ここでは、「マルタ」と呼ばれる中国人や朝鮮人、ロシア人の捕虜やスパイ容疑者に対して非人道的なことが繰り返されていた。
館内には日本軍が証拠隠滅のために地中に埋めた解剖器具やそのレプリカ、実験動物の飼育道具、元部隊員の供述書や彼らの記憶をもとに再現された毒ガス実験室の間取り図、日本側から提供された当時の建物や関係者の集合写真などがあった。日本兵にペスト菌を腕に注射されて顔を歪める人形や生きたまま解剖にされて悶え苦しむ人形など、視覚に訴える演出もなされている。
日本はこの歴史とどう向き合って来たのか。実験データは米国に渡し、戦犯を逃れた人がいる。また、人体実験で得た知識が高く評価され、大手製薬会社や国立の研究所に出世した人もいる。戦後日本の医療を牽引した科学者、賞賛された者たち・・・これが日本人が闇に葬った負の歴史である。
そんな建物の側で彼女たち家族は育った。しかし彼らは日本に対して恨みはないと言う。日本政府と日本国民は分けて考えなさいと教えられてきた彼らの歴史認識に甘えた加害者は反省する機会を永遠に失ったようだ。
彼女の名前は具恩恵(グ・ウネ)。日本に来たばかりの頃、日本語学校に通いながらも、恩恵は生活費と家の借金返済のため週に4件のアルバイトを掛け持ちした。日本語での接客が困難なため、任される仕事は掃除ばかり。マクドナルドで階段にしゃがみこんでタイルにこびりついた汚れをスポンジで拭き取る。同世代の足下で味わった悔しさを恩恵は生涯の糧とした。
恩恵は仕事を転々としていく。辞める理由は差別と呼べるものもあれば、不当な労働環境だったりするが、彼女は場所や人に全くと言っていいほど固執しない。彼女の反骨精神は読者に強いインパクトを残すだろう。
彼女の会話で忘れられないフレーズがある。
私が日本の若者たちの貧困に気づいたのは、恩恵の話を聞いている時だった。バイト先にいる日本の若い子たちは自分より貧乏で、食事を抜いて働いている。精神的に不安定で手首に傷がある子もいる。日本は豊かな国のはずなのに、なぜあんな子たちがいるのかと私に訊ねた。
当時、企業が正社員の採用を抑えたため非正規雇用が拡大し、年齢にかかわらず、アルバイトや派遣雇用を転々とする人が急増した。新入社員である私にとって、日本の若者の貧困化は人ごとではない。恩恵が敏感に察知した現状は、常に私に突きつけられている現実のように思われるのだ。
そんな息苦しさを感じる世の中で、恩恵は自分の仕事をこなし成長していく。私も彼女につづきたいと思う。逆境だからこそ発揮される強さが心を熱くさせる、そんな一冊である。