著者の岩田先生は、不思議な本を書く人だ。自身の専門である感染症を核にして、抗生物質、ワクチン、さらにはパニックに対するリスクコミュニケーションなどを明快に論じると同時に、自らの知見、思い、そして生き方の根本的な思想までもを、人に伝えようとする。つまりは「啓蒙的な本」を書く人と言えるのだが、その思いが非常に強く、とにかく伝えたいことがいっぱいあるので、「啓蒙的」という枠を壊すようなパワーを持った本を次々と上梓しているのだ。
例えば、漫画家・石川雅之と組んだ『絵でわかる感染症 with もやしもん』などは、完全に専門的な内容なのに、イラストと文章で誰でも面白く、かつわかりやすく読めてしまうという不思議な本だった。医学や看護学を学ぶ学生がコアな読者対象となろうが、版元は医学専門書の出版社から出されたわけではなく、講談社だ。あらゆる人に、徹底的に感染症を理解してもらいたいという、著者の熱い思いが感じられるのだ。たしかにすべての人が感染症に関する専門知識を身に付ければ感染症パニックは生じず、社会における大きなリスクは回避できる。そんなことまで著者は考えているのかも知れない。
前置きが長くなったが、本書も、実に不思議で、そして熱い本だ。表題の「サルバルサン」とは、1910年にドイツの細菌学者パウル・エールリッヒと秦佐八郎によって開発された梅毒の特効薬である。この薬は、生物の細胞には大きな悪影響を与えず、病気の原因菌のみを殺す「魔法の弾丸」であり、自然界にはない化合物を合成し、それが微生物に結合して作用し、感染症を治療するという、世界初の化学療法薬である。サルバルサンは創薬技術の原点であり、実に1兆ドル規模にまで成長した現代の医薬品産業の最初の一歩だったと言えるかもしれない。
本書は、サルバルサンの開発者・秦佐八郎の奮闘を描いた「科学ノベル」だという。新書という形態でありながら「小説」ということにまず「?」と思う。カバーのソデには「ノンフィクション・ノベル」とある。ノンフィクションなのか、フィクションなのか。そして帯にはなんだかめっちゃかっこいい感じの秦佐八郎のイラスト。どんな読者に向けて書かれているのか、一瞬見えなくなる。
しかし、読み始めると、そういうことなのか、と納得する。秦佐八郎の伝記でありつつ、史料から得ることのできないような秦の心情や意識までもを、こうだったに違いない、と描写してゆく。啓蒙的な本という意味では、マンガHONZでも大絶賛された『まんが医学の歴史』を思い出すが、新書であるがゆえにずっと本書の方が軽妙で、また著者自身の思考と意志が強く反映されている。「感染症界のエース」として活躍する著者が、同郷の秦に自分自身を重ねあわせ、研究者としてあるべき姿を力強く示した本でもあるのだ。
例えば、延々と、飽きることなく寸分違わぬ実験を繰り返す秦の様子が描写されるのだが、このとき、秦の頭のなかには「ずんちゃずんちゃずんちゃずんちゃ」と郷里の石見神楽の囃子が流れている。その単調な繰り返しが重層化し、増幅する。繰り返されるたびに、同じ反復に差異が生まれる。差異と反復という矛盾するふたつが繰り返され、それがやがて増幅された感動を生む。
これは、科学者の実験のあり方の比喩となっている。秦が単調な実験を反復のなかで、微小な差異が積み重なり、結果大いなる知見に至るのである。若き研究者や学生に、研究に挑む心構えを伝えるものであり、また著者自身の、研究に対峙する際の信念の吐露でもあるだろう。
同時に、当時の研究者たちの躍動も描く。ドイツの巨人コッホと北里柴三郎。その教え子の志賀潔、野口英世、森林太郎(鴎外)。高木兼寛に鈴木梅太郎、731部隊の石井四郎あたりもちらりと登場する。さらに後藤新平や星一らの事業家、福沢諭吉らがからみ、当時の科学者たちの状況を活写する。当時は日本の生命科学をめぐる最高に面白い時代だ。本書でその魅力に心惹かれたら、ぜひ、このレビューの最後で紹介した本などを手にとってみてほしい。
著者が仕掛ける「空想飲み会」もぶっ飛んでいる。例えば秦と野口英世が飲んでいると、石川啄木と南方熊楠が現れて会話に参加する。いわば幻想であり、彼らは現在の状況まで知っているので、野口が夏目漱石を差し置いて紙幣に採用されたことなどを伝えて、愚痴る野口を石川啄木が慰めたり、自分が書いたものがネットでタダで見られてしまうことを南方熊楠が嘆いたりと、自由すぎる会話が展開されるのは、「ノベル」ならではだ。
さらに、広島は似島の陸軍第二検疫所での、秦と後藤新平との「空想飲み会」に森孝慈が登場したのはあまりに唐突で驚いたが、よく考えると、これは唸るような妙手である。Jリーグファンには、あのめちゃくちゃ弱かった浦和レッズの愛すべき初代監督、「浦和レッズの父」として知られている森孝慈だが(メキシコ五輪銅メダル時の日本代表主力選手であり、西ドイツへサッカー留学し、日本代表監督も務めるなど、選手、指導者としてサッカーの発展に尽くした人でもある)、実はその父親は、原爆投下後の広島の姿に衝撃を受け、原爆孤児を引き取って似島に似島学園を設立した森芳麿という人物なのだ。
似島の検疫所には第一次世界大戦・青島の戦いによって日本に連れて来られたドイツ人捕虜たちが収容された「ドイツ人俘虜収容所」が作られてもいる。森孝慈がいきなり飲み会に登場することで、日露戦争から、第一次世界大戦、太平洋戦争と原爆投下から現代までが見事に繋がり、歴史上の一点の小さな出来事が波紋のように広がって現代が形作られていることを実感する仕掛けになっているのである(第一次世界大戦のドイツ人捕虜に関してはこちらもぜひ読んでほしい)。
脚気をめぐる森林太郎(森鴎外)への考察も面白い。私などは、高木兼寛(慈恵医大の創始者でもあり、「海軍カレー」の生みの親でもある)が、海軍に麦飯を取り入れて脚気を防いだ善玉であり、森林太郎が、その官僚的なエリート意識によって、陸軍に脚気による大量の死者をもたらした悪玉、と単純に思っていたのだが、史料にも詳しく当たっている著者の考えはより深い。
高木は、食事が脚気と関係があると考え、「日本初の臨床比較試験」を行う。海軍ではハワイを航行した練習艦「龍驤」で乗組員378人中半数が脚気に罹患し、23人が死亡したが、これを「対照群」とし、同じ航路を航行させた練習艦「筑波」では、白米を麦飯に変えた「介入群」と比較したわけだ。
結果、筑波では脚気患者がほとんど生じず、海軍では麦飯が採用されるだが、そこに、著者は、「分からなければ試せばいい」というイギリス流のプラグマティズムを見る。
同時に高木の実験や理論に無視できない瑕疵があることも指摘し、「分からないから、とりあえず麦を試してみませんか」と軽々しく折衷案に逃げることができない森の強い精神性を思うのだ。そして、森の持つ、辺境人としてのコンプレックスと諦観、西洋に驚嘆し「大好きだけど大嫌い」になったゆえの反発心、歪んだ嫉妬心、小役人的エリート意識……それらが混在するがゆえに生じた「引き裂かれんばかりの自我」がはらむ、「森鴎外」の文学性にまで言及するのである。
サルバルサンの開発までの奮闘と、その後のこと、すなわち、梅毒から多数の人命を救ったことへの称賛と、臨床での乱用、副作用の問題、薬効が限定的であったことへの非難(もちろん、あのサルファ剤への言及もある)などが、本書の中心といえるが、これまで書いてきたような多方面への脱線も、本当に面白い読みどころで、そこに著者からの熱いメッセージが隠されてもいる。
研究とは、実験とはいったいどういうものなのか、科学者のあるべき姿はどういうものなのか。嫉妬やプライド、金などが、どういった形で研究を損ない、社会への害悪となるのか。読み物として楽しむうちに、それらが理解でき、翻って現代社会を考えるきっかけになる本である。
科学者たちの人生と歴史、面白いエピソードを知りたければまずはこの2冊。その魅力にハマることうけあいだ。