書影を見て、「ドクター・ハックって、あのハックか」と思わず手に取った。
著者は『満州国皇帝の秘録』『トレイシー−−日本兵捕虜秘密尋問所』そして『四月七日の桜−−戦艦「大和」と伊藤整一の最後』の中田整一氏だ。面白くないわけがない。
1914(大正3)年)11月、日英同盟により第一次世界大戦に連合国側として参戦した日本は、中国におけるドイツ租借地・青島でドイツ軍と戦闘を行う。激戦の末、ドイツ軍ワルデック総督は降伏し、約5000名のドイツ兵が捕虜として日本の収容所に送られた。そのうちのひとつが、千葉県習志野俘虜収容所だ。
習志野収容所長は西郷隆盛の長男であった西郷虎太郎。父の死以降、窮乏を極めていたのを明治天皇の配慮で救われ、ドイツ士官学校に留学、この地位についたのだ。そして、ドイツへの理解が深く、また敗残者の辛さを身に沁みて知った西郷の元で、習志野の収容所は活力が溢れた場所となった。捕虜たちが自ら、敷地内に小屋や野外ステージを作った。オーケストラが編成され、ベートーヴェンやシューベルトそれにヨハン・シュトラウスの曲が演奏され、捕虜たちが作った劇団はイプセンを上演する。映画も上映され、運動会も開かれた。
さらに、農園が作られ、ビールも醸造された。捕虜たちは、近隣に出張し、ソーセージやハム、洋菓子、コンデンスミルク、マヨネーズの製法などを技術指導も行っていた。さらに、収容所内部では好学の機運も高まって、日本語と日本文化の講義もさかんに行われた。日本に造詣が深い捕虜の一人、フリッツ・ルンプは、日本の民話の翻訳に没頭し、ドイツ帰国後、日本文化研究者となっている。
捕虜たちの一部は、戦争終了後も日本と大きな関わりを持った。カール・ブッチングハウスは目黒でソーセージ作りを始め、ヨーゼフ・ヴァン=ホーテンは明治屋で同じくソーセージ技術指導に携わった。ヘルムート・ケテルは銀座でレストラン「ケテル」を開業。同店は2004年の閉店まで銀座の名店として知られた。ヘルマン・ウォルシュケもソーセージを製造。甲子園球場名物のホットドッグ「ヘルマンドッグ」は、ウォルシュケが1934年に売りだしたものだ。そしてカール・ユーハイムにアウグスト・ローマイヤ。そのファミリーネームだけで彼らが何を始めたかわかるだろう。
食の分野だけでなく、甲南大のヨハンネス・ユーバーシャールや成蹊大のカール・フォン・ヴェークマンは、教育者として日本に残り、日本のドイツ語教育を担うとともに、海外へ日本文化を積極的に紹介してくれた。ドイツに戻った捕虜たちも、その後、親中反日が主流だったドイツにおいて、親日派の中心となる。日本のドイツ人捕虜に対する手厚い対応は、その後大きく実を結んだのだ。
さて、実はここまでは、本書の主題ではない。上記の内容もむしろ、『ドイツ兵士の見たニッポン―習志野俘虜収容所1915~1920』という最高に面白い本によっている部分が多い。この本を読んでハックを知ったゆえ、本書の書影をみて、思わず興奮して手にとってしまった、というわけである。
そう。本書の主人公であるフリードリッヒ・ハックも、習志野にいたのだ。そして解放後は、スパイ、武器商人、あるいは外交ブローカーとなり、習志野にいた捕虜の中で、もっとも日本の歴史に影響を与えた人物となったのである。
ハックが日本との関わりを持つようになったのは、1912年の満鉄への就職だった。まだ25歳。彼はドイツ人専門家として経済資料の分析や科学的分析を行うと同時に、日本語の習得、日本文化の研究に力を注ぎ、その文化を愛するようになる。そして捕虜となり福岡と習志野での収容所経験を経て(その間にドイツ人将校5人の脱走に関与したとして軍法会議で懲役刑の判決を下されてもいる)、武器商人そして諜報部員として日本と関わるようになるのだ。1921年には、アドバイザーを務めていたベルリンの海軍武官事務所で、情報収集や海外折衝を担っていた酒井直衛に出会う。やがて二人は生涯を通じて固い友情で結ばれた盟友となり、日本の運命に関わっていく。
ちなみに、ハックが武器商人として扱ったのは、ロールバッハ飛行艇、デュレネル・メタル・ウェルケのジェラルミン、そして最大のものは、ハインケル社の航空機。ドイツ空軍が正式採用する前から、ハックを通じ、日本海軍はハインケル社の新機種の設計図や試作機の情報を入手していたという。そしてこのハインケル社との関わりがのちにハックを救うことにもなるのだから、運命は面白い。
本書の副題には「日本の運命を二度にぎった男」とある。その一度目とは、そういった活動のなかで、ハックがナチスドイツと日本を結びつけ、「日独伊三国同盟の一里塚」となった日独防共協定の締結に大きな役割を担ったことを指している。
中田氏は、甥のレイナルド・ハックから入手した貴重の史料を始めとする1次資料と関係者への直接取材により、日独防共協定成立までのハックの動向を詳細に追う。締結の中心となったのは、日本側が「ナチスかぶれの人物と酷評されていた」大島浩ドイツ駐在陸軍武官。ドイツ側が「ヒトラーへの点数稼ぎを狙っていた」ヒトラーの外交特別顧問リッベントロップ。二人の思惑が通じ合ったのだ。この過程の詳細の記述によって本書が明らかにするのは、この協定締結が、両国の外務省を無視した、「のちに米英を敵にまわすことなど夢にも想わなかった日本軍部とナチスドイツとの独善的な素人外交」だったことだ。
ちなみにこの協定については締結の1年弱前にソ連にもイギリスにも情報が漏洩している。しかし、日本の外務省がこの動きを知ったのは、ソ連の情報をソースとしてそれが欧州で報道されたあと、という体たらくである。
調印の9日後の英国極東局から本国に送られた極秘文書のレポートを本書は紹介している。
日独交渉の大部分は、通常の外交ルートとは異なり、ドイツ側からはナチ外交部が、日本側からは、ソ連の戦略的立場を意識しすぎ、かつ日本外務省の束縛を嫌う近視眼的な軍人たちが代表となって進められた。
(中略)日本陸軍は、理性的な判断を下したというよりも、ロシアに対抗するための同盟国をもてば有利だろうと、本能的に感じたまま、ドイツ側の提案を受け入れたようだ。
協定締結は、日本側としてはまったく軽率な行動だったというほかない。
日本は自らの軽はずみな行動がもとで、今後はその意図に反して、情勢不安なヨーロッパの政治外交の場に踏み入れることになった。
国際政治にまた一つ、不安の種がふえたといえよう。われわれはこれを機に、極東におけるアメリカとの協力関係をより親密化させることができるかもしれない。
その後の情勢を見事に予見する、実に的確なものだ。
さて、ハックが日独の仲介役となったのは、大好きな日本と母国が親密になれば、という素朴な思いだった。しかし、協定に関わるうちに、ハックはナチスの本性を見抜くようになる。「ナチスの全部が嫌いだ。とんでもない連中だ」と酒井に話し、ナチスの人種差別政策を『人間の摂理』に反すると、臆せずに心ある人達に訴えるようになったのだ。
ちなみに酒井は、ハックに先立ってナチスの思想に危機感を持っていた。多くの人がナチスの台頭に酔いしれていた1935年の第七回ナチ党全国党大会後の懇親会で、「正義感に駆られ、血気にはやる」酒井はナチス党員たちにこう詰め寄ってる。
「ナチ党は、ナチス・アーリアでなければ人間ではない、というような人種差別観を持っているが、このような考えでは日独協会など作って日独国民間の親善を図ろうとしても意味のないことだ」
酒井の強硬な物言いに、付き添っていた係官はただおろおろするばかりだった。
万座の視線が注がれるなかで、酒井はさらに啖呵を切った。
「このような人種差的な政策を変えない限りナチスの一千年の帝国も信用がおけぬ。今日はユダヤ人を差別の対象にしているが、明日はポーランド人、明後日は日本人になるかも知れない……」
まだハックがナチスの危険性に気づいていない頃のこと。酒井という男もなかなかの人物、「ナチスかぶれ」の大島陸軍武官とは大違いである。
さて、話を戻すが、日独防共協定締結におけるハックの行動とナチスに与しない言動は、彼を窮地に追いやっていく。
まず、東京のナチ党外国組織部が、自分たちが防共協定の交渉の蚊帳の外におかれたことに嫉妬し、ハックの行動を執拗に本国に密告している。これがどういう影響を与えたかは定かでないが、ハックと近い国防軍情報部長官のカナリスと、ナチス親衛隊のハイドリッヒ諜報部長官(ヒムラーに次ぐ大物)との確執にも巻き込まれ、’37年7月、以前から反ナチス的言動で目をつけられていたハックは、ゲシュタポに逮捕される。容疑はナチスが苛烈に排斥していた同性愛。独身だったための「濡れ衣」である。ちなみにカナリスは、ハンス・オスターらのヒトラー暗殺に協力していたことが発覚し、ベルリン陥落直前に処刑されている。
ハックは一時は死を覚悟する。それを救ったのが、酒井とその上司である小島秀雄海軍武官らだった。ハックの兄の友人でゲーリングにつながりを持つベルトールドという男を頼り、ゲーリングに働きかけた。埒が明かず一時は行き詰まったが、そのベルトールド発案の秘策でハックを解放させることに成功したのだ。
酒井は、小島武官に、ゲーリング宛の次のような公式文書を提出してもらった。
ハック博士は、ハインケルの代理人として、日本海軍が購買計画を折衝している相手である。今、ハック博士が逮捕されたのでは、緊急重要な交渉が挫折して、甚だ迷惑である。この購買計画が完了するまで日独防共協定の精神に基づき、かれに自由交渉ができるようにしてもらいたい。
日本海軍がハインケル社に飛行機を発注するから、ハインケル社の代理人であるハックを一時的でもいいから釈放せよ、ということだ。実はこれは真っ赤なウソで、そんな購買計画は一切なかったのだが、これが効き目があった。航空大臣を兼ね、ドイツの軍備と経済を立て直す4カ年計画の責任者だったゲーリングは、この取引に釣られてハックを釈放したのである。
面白いのは、この文書は完全な嘘だったにもかかわらず、驚いたことに、ハックの釈放から4,5日後に東京の海軍航空司令部から、ハインケルの戦闘機He-110を24機ほしい、などという問い合わせが来たのだ。さらに次々と注文が飛び込み、「一千万マルクを超える大商い」となったという。
とはいえ、ゲシュタポは常にハックの動向に目を光らせていた。ふたたびナチスに囚われてしまう可能性は大いにあったので、酒井たちは、スキー客を装ってハックをスイスに亡命させる手段を整え、同時に、彼がスイスで航空機売買に伴う莫大な代理店手数料をもらえるように取り計らったのである。
これを恩義に感じたハックは、その後、日本海軍にヨーロッパの貴重な情報を、一切の金銭を受け取らずに伝え続ける。
やがて、日独防共協定を主導した大島浩は、日独三国同盟へと動くわけだが、ハックはこれに猛烈に反対し、酒井に対してこう言う。
「日本は引きずり込まれて酷い目にあうぞ。この条約は必ず英米を敵に回し、日本は欧州の戦局にまきこまれる」
その後の展開がハックの予想通りとなったことは周知のとおりだ。そして日本の敗戦が濃厚になったとき、ハックは、あのアレン・ダレスと交渉を重ねつつ、和平工作に奔走する。日本とドイツが親密になってほしいという素朴な願いが、結果としてナチスと日本の軍部を結びつけてしまったという「十字架」を背負ったハックは、本当に日本を救うために、再び「日本の運命をにぎった男」となるのだ。
男たちの友情に彩られたその白熱したドラマはぜひとも本書でしっかりと読んでほしい(加えて言えば、本書のサイドストーリーとして語られる、原節子が主役に抜擢された日独合作映画『武士の娘』をめぐる話も抜群に面白いので、ぜひ楽しんでほしい)。
原爆投下というあまりに悲惨な結末を迎えた太平洋戦争だが、その直前まで、骨身を削って日本を戦争から救い出そうとした、実にまっとうなドイツ人がいた。
そして彼の洞察力と行動は、日本の現状を的確に捉えるヒントにあふれている。