数日前、庭木の枝に小さな鳥の巣を見つけた。お椀型の巣はからっぽで、内側をシュロなどの繊維、外側はコケや地衣類でおおわれ、クモの巣で枝に接着されている。「メジロかな?」可愛らしい緑色の小鳥の姿を思い浮かべて笑顔になりかけたとき、不安におそわれた。コケや地衣類は放射能に汚染されやすいと聞くが、それを巣材に使った小鳥は、どうなってしまうのだろう?
そんな疑問をもったとき、書店で見かけたのが本書である。子ども向けの写真絵本だが、解説もしっかりとしていて、読みごたえがある。著者は山形県在住の写真家で、原発事故で被害を受けた福島県の阿武隈山地にも昆虫調査で足を運んでいた。
本書のタイトルを見てまず想像したのは、「放射線を浴びた生物に奇形や生殖能力への影響が出たことがショッキングな写真でたくさん紹介されている」……というものだったが、違った。
テレビ局の記者から「角のまがったカブトムシが見つかっています。これは放射線の影響ですよね」という質問を受けたことがありました。脱皮したばかりの昆虫は体がやわらかく、何かがふれただけで形がゆがんでしまいますから、ふつうにおこることなのですが、事故の直後は、何でも放射線の影響ではないかとうたがう空気がありました。
あおることなく、淡々と、冷静に、原発事故後に起きた自然環境の変化が写真とともに解説される。
本を開いて最初に目に飛び込んでくるのは、「春うららか」という言葉がぴったりな、里山の写真。新緑のやさしい黄緑色が木々の枝先を染め、ヤマザクラの花が咲き、ふんわりとやわらかな日差しが森を包む。今にもウグイスのさえずりが聞こえてきそうだ。だが、これが原発事故の被害を受けた地域であることを知れば、受け止め方は一変する。――こんなに美しい場所を、わたしたち人間は汚してしまった。
事故後しばらく、放射線についての情報が正確に伝えられていたとは言い難い。著者も線量計に表示された毎時20マイクロシーベルトという数字の意味もわからないまま、津波跡の海岸の生きものを毎日調べていたという。しかし、事故から半年以上が過ぎて、「日本では毎時0.23マイクロシーベルト以下におさえるという基準が示された」という事実。感じた不安や怒りをあえて書かずに読者の想像に委ねようとする姿勢が、本書では貫かれている。
わたしが最初に想像してしまったように、「放射線の影響=生物の体への直接的な影響」というイメージを持つ人は少なくないと思う。しかし現時点では、人が住まなくなったことによる自然環境の変化が、生物に多くの影響を与えているようだ。
たとえば、放射線量の高い地域でモンシロチョウが姿を消したことが紹介されている。それはモンシロチョウの幼虫が食べているアブラナ科の植物が、人がいなくなって草刈や畑での耕作をしなくなったために背丈の高い草に覆われてしまったことが原因のひとつだと考えられる。
また、何百年にもわたって守り継がれてきた田畑は、わずか数年で外来の植物に覆いつくされてしまった。こうした「身の回りのあたりまえの自然」は、その価値が見過ごされがちであることを、改めて思い知らされる。
地域で動植物を調べている人々を動かしている原動力は、なれ親しんだ土地の自然が大好きで、それが今後も失われずにあってほしい、という愛着です。それだけに、原発事故で野山を歩くこともできなくなり、外来種がはびこり、草が生いしげった田畑や水路を見なければならないのは、非常につらいことだろうと思います。
里山や田畑、水路、草原などが入り混じった環境は複合生態系と言われ、じつは原生的な自然よりも生物の多様性に富んでいる場合がある。しかしそれは人の手が入って初めて成り立つものであり、田んぼに水がはられないことによって、水を必要とするカエルが減った。カエルが減ることによって、それを餌としていた生物たちも、いずれは姿を消すかもしれない。
本書で唯一、奇形について触れているのは、ヤマトシジミという小型のチョウだ。琉球大学の研究者が原発事故後の5月に、事故現場周辺で100匹以上のヤマトシジミを採集して調べた結果、野外で採集したチョウに、目がくぼんだり脚が変形するなどの異常が見つかった。放射線の影響を受けていない沖縄のヤマトシジミに放射性物質を含んだ餌を与えて飼育したものにも、異常が見つかった。
昆虫と人間とでは、体の大きさも違えば、世代交代のスピードも違う。食べものを選べない野生生物は人間とは異なり、放射性物質に汚染された餌を食べ続けている。昆虫や動物に起きた変化を、短絡的に人間にあてはめることはできない。それでも……
大切なのは「大丈夫ですか」とたずねることではなく、自分で考えること。事故がおこってしまった東北地方で、多くの人びとは、これからもくらしてゆくことを、考えぬいた末に選びました。そのためにも、自然界の異変にはしっかりと目を向けてゆかなければなりません。
行間からにじみ出るような、静かな怒り。事故後、まだ人間が最優先だったときにチョウを採集してまわった研究者を、白い目で見ていた人もいたかもしれない。だが、それは研究者としてするべき使命だった。同じように、これからを生きていかなければならない子どもたちに向けて、「自分で考える」本書を送り出すことも、著者にとっては写真家としての使命だったのだろう。
農薬汚染を告発したレイチェル・カーソンの名著『沈黙の春』に、こんな記述がある。
春がきたが、沈黙の春だった。いつもだったらコマドリ、スグロマネシツグミ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声で春の夜は明ける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音一つしない。草原、森、沼地――みんな黙りこくっている。
原発事故で汚染された地域には、ずっとにぎやかな春が来てくれるだろうか。そのために、わたしには何ができるのだろう。
キーボードを打つ手を止めて、机の上に転がっている小鳥の巣を眺めながら、ふと思い出した言葉がある。
Today Birds,Tomorrow Men
(今日の鳥は、明日の人間)