自慢じゃないが、幸福の国ブータンについての本には造詣が深い。文献派なので、2010年の春にブータン旅行した前後に、手当たり次第にブータン本を読んだ。そのころは、まだそれほどのブータン本が出ていなかったので、手に入る本はほとんど読んだ。今は復刊されているが、当時は絶版であった、ブータン本の古典、中尾佐助の『秘境ブータン』も、高い古本を取り寄せて読んだ。翌年、アントニオ猪木に似たブータン国王の来日で、ブータンブームがやってきた。次々とブータン本が出版された。
2012年に出版された、ブータンの公務員として勤めた経験を記した御手洗瑞子さんの『ぶ~これ』こと『ブータン、これでいいのだ』、そして、ブータンへ雪男を探しに行った高野秀行さんの『みらぶ~』こと『未来国家ブータン』、というユニークで出色な二冊を読んだきり、ブータン本を読むのをやめた。ブータン、いったところで、国土面積は九州よりも少し大きい程度、人口は80万人弱の小国である。たくさん出版されると、本の内容がオーバーラップしてくるのはいたしかたないところだ。
しかし、この本、いままでのブータン本とは少し違う。切り口が違う、というよりは、その経験が違う、といったほうがいいだろう。タイトルにあるように、ブータンでの診療経験を綴った本だ。それも、首都ティンプーのような『都会』ではない。診療所のあるタシガンは、ブータンでも開発が遅れている東部の県だ。
着任が命じられたカリン、風光明媚といえば聞こえはいいが、山間部の村である。いきなり『温かい風呂やシャワーが期待できないこと、ダニには慣れるしかないこと、床屋がないのも困ること』といったブリーフィングをうける。そんな場所で『慣れる、慣れる、慣れる』と呪文のように唱えながら活躍した医師の記録である。
目的は、診療するだけではなく、ブータンではおこなわれていない健診をおこない、ブータンの人たちの健康に寄与することだ。渡航計画はなかなか進まなかったが、首相にあてた直訴状により一気に話が進む。『ぶ~これ』にも書かれているが、ブータンの行政というのはフレキシブルといえばフレキシブル、いい加減といえばいい加減。ともあれ、子供のころからの夢がかない、ブータンでの暮らしがはじまった。
『ブータン人が本当にやりたいと思うことを友人としてお手伝いするというスタンス』であるから、まずは健診できる人を育てなければならない。ボランティアに手をあげてくれた人は16人いたが、字を読める人は6人だけ。幸福の国といわれるブータンであるが、このことからだけでも、きれいごとだけではすまないことがわかる。
健診の結果わかった大きな問題点は二つ。ひとつは高血圧。ブータンでは塩分摂取が体にいいという意識があるために、塩分を摂り過ぎがちなのだ。もう一つは、アルコール依存傾向。この二つは明らかにコントロール可能な予防因子である。単純なことだけれど、健診がおこなわれていなかった国でわかったエビデンスは大きい。
『アラ』という日本でいうところの焼酎が、ブータンで飲まれている一般的なアルコールだ。そういえば、ブータン旅行中、夕食にはアラが無料でサービスされていた。そういう文化なのだろう。お祭りなどはもちろん、日常的にもアラを飲む機会が多いらしい。アルコールには強くないが心優しい医師である坂本は、きついと思いながら、いつもつきあう。一度は、飲み過ぎて脱糞したらしい。しかし、そこまで飲むかよ…
西洋医療とならんで『癒しの智叡』とよばれる伝統医療の部門が病院に同居する国である。ドゥクハラン(毒を吸う男)という、皮膚を傷つけて血を吸う施術師が病気を治すと信じられている国である。健診で病気を見つけたが、退院後も立てなくなり、手術などうけるのではなかったと嘆かれたこともあったらしい。難しい問題だ。
しかし、医師冥利につきることの方がおおかったようだ。パーキンソン病のおじいさんに薬を処方したら、劇的によくなった。てんかんのおばあさんも。おもしろいのは、活動を終わって一年半後に再訪した坂本が近隣で耳にした、そのおばあさんらしき人についてのエピソード。
カリンであるおばあさんがしょっちゅう気を失って困っていたんだ。すると、ある日、背の高い大きな男が突然現れて、おばあさんをパッと治してしまったそうだ。
まるで魔法使いである。
ブータンといえば、なんといっても幸福感。坂本も、カリンの老人達にどんなときに幸せを感じるかを尋ねたところ、さまざまな理由がかえってきた。なかでも、『病気がないとき』や『子ども、孫、親戚や友人と一緒にいる時』が多かった。
『しあわせを感じる時などない』というおじいさんがおられる一方で、一回まわせば一回お経をあげたのと同じご利益があるとされているマニ車を回しながら、『お祈りができるから私はしあわせだ。』と語った寝たきりの老人もおられた。瑞子さんではないけれど、ブータンこれでいいのだ、とつぶやきたくなってしまう。
坂本が所属する京都大学では『ブータン友好プログラム』が進行中である。それに関連した勉強会で名刺交換をしたことがあった。面識がある、とも言えないような間柄だ。その坂本から、一年ほど前に、出版したいのですが、と、この本の素稿が送られてきた。もともと、『毎日日記をつけとけよ』と勧めた父親に読ませようとしたものである、と書かれていたと記憶している。淡々と、しかし、時に異常なまでに熱く語られる内容は、面白くはあったけれど、だらだらとしていて、ちょっと難しかろうという印象を持った。
HONZのメンバーといっても出版にたいしたコネなどない。しかし、家族が読んで面白いのと、一般の人が読んで面白いというのはまったく違うから、誰に向けて書いているのかを考えて書き直してみたらどうか。できれば、いい編集の人に指導してもらって、という内容の返事を送った。そんなことがあったので、こんなに読みやすく面白い本になっていることに驚いた。
ブータン行きの時と同じように、出版にむけても、坂本の強い思いと行動が通じたのだ。ブータンの首相から私のような雑魚まで、相手かまわず思い切って行動するガッツ。願っているだけでは意味がない。行動しているうちにきっと夢はかなうのだ。
ブータンの先輩である瑞子さんは、華奢な体に潜むとんでもないバイタリティーを発揮して『気仙沼ニッティング』を立ち上げて大活躍。坂本も、京都大学が優秀な若手研究者にフリーハンドで研究させる『白眉プロジェクト』に30倍以上の競争率を突破して選ばれた。『人生いかに感動し、感動させるかだ』という、坂本龍馬ならぬ坂本龍太にも、珠子さんについで、ぜひ次の夢をかなえてほしい。
ブータン本といえば、この本。半世紀以上前の本だけれども、今読んでも面白い名著。
瑞子さん、ブータンの公務員として活躍の巻。みずみずしいブータン本。
未知生物探索の権威、高野秀行が描くブータン。私のHONZレビューはこちら。