2014年夏、マイクロソフトの創業者であるビル・ゲイツは、自身のブログ「gatesnotes」で『Business Adventures』という1冊の本を紹介した。20年以上前にウォーレン・バフェットから推薦されたもので、以来「最高のビジネス書」として愛読し続けているという。世界的にも大きな注目を集めた本書の魅力と概要を、翻訳者の須川綾子氏に解説していただいた。
『人と企業はどこで間違えるのか?』は1959年から1969年にかけて執筆されたエッセイのアンソロジーである。2014年の夏、ビル・ゲイツ氏が「最高のビジネス書」として紹介し、しかもウォーレン・バフェット氏から20年以上も前に借りて、それ以来何度も読み返している本というエピソードがついたことで、大きな注目を集めた作品だ。
著者ジョン・ブルックス氏は1920年にニューヨークに生まれ、1993年にこの世を去っている。プリンストン大学を卒業後、第二次世界大戦で陸軍の通信部隊に勤務したのち、『タイム』誌の編集者の仕事に就いた。その後、優れたルポルタージュや短編小説を掲載することで定評のある『ニューヨーカー』誌のスタッフライターとなり、ストーリーテラーとしての腕に磨きをかけた。1929年の大恐慌、60年代の黄金期、80年代のM&Aブームなどをテーマとする多数のノンフィクション作品と、いくつかの小説作品を残している。
本書の各章で取り上げられているのは、いずれもアメリカ経済史の転機となるような出来事だ。株価大暴落、不祥事、法廷闘争、マーケティングの失敗例といった史実に関する記録なのだが、40年以上の時を経ても、それぞれの物語に時代を超えた普遍性がみられるのは驚くべきことである。
たとえば第5章「コミュニケーション不全――GEの哲学者たち」では、1950年代の価格カルテルについて、経営トップらが「何も知らなかった」と言い切ることの理不尽さが浮き彫りになる。この章を読むと、全米第7位の売上総額を達成しながら、2001年にあっけなく倒産したエンロンの粉飾決算事件を思い出す。創業者からCEOの職を引き継いだジェフ・スキリング氏は、社内弁護士による報告を受けたとき、粉飾決算に関する問題は対応済みとの説明に安堵し、「われわれは雪のように潔白なんだな」と応じたという。真実から目を背け、正しい道を選ぶ機会を逃した姿は本書に登場する人物たちと酷似する。
第4章「もう一つの大事件――ケネディの死の裏側で」は、倒産の淵にあった証券会社の一般顧客を守るため、ニューヨーク証券取引所の旗振りのもとで金融機関が一致団結するという、1963年の手に汗握る物語だ。結末はほとんど正反対だが、2008年9月のリーマンブラザーズ破綻劇と重なるのではないだろうか。2008年のケースでは、ヘンリー・ポールソン財務長官の仲介のもとでウォール街の重鎮たちが綱渡りの交渉を重ねたが、民間資金によるリーマン救済は実現しなかった。結局のところ、金融市場の安定化のため巨額の公的資金の投入を余儀なくされたことは記憶に新しい。さまざまな意味で現在と過去に思いを馳せずにはいられない。
本書の素晴らしい点は、半世紀近くたったいま読んでも、単に歴史的事実の記録にとどまらず、それぞれの出来事の裏側にある人間的な側面が鮮やかに伝わってくることにある。著者は丁寧に取材を重ね、成功と失敗の物語に隠された苦悩や葛藤に斬り込み、また一方で、有能であるはずの各界のリーダーたちがどうして道を誤ったのか、多くの示唆を与えてくれる。ブルックス氏の文章はあくまでも抑制されたものであり、お説教めいたことを書き連ねたり、声高に何かを主張したりするわけではない。登場人物たちの心の機微を感じ取るのは読者の役割であり、それが本書を読むことの一つの醍醐味にもなっているように思う。
また、時代を経た作品であるがゆえの楽しみとして、1950年代から60年代にかけての視点に立った著者が折に触れて、「未来の社会」について示唆しているのが興味深い。なかでも、第3章「ゼロックス、ゼロックス、ゼロックス、ゼロックス」にある「60年代後半に未来の図書館にもっとも近づいていたのは、ゼロックス傘下のユニバーシティ・マイクロフィルムズだ」という一文は印象的だ。私たちはすでに、デジタル技術により世界中の情報を瞬時に手繰り寄せることができる時代にいる。1960年代、急成長期にあったゼロックス社は、コピー機市場での競争優位は永続しないと判断し、異業種に参入する先見性を持っていた。ところが70年代以降、同社はパロアルト研究所でコンピューターのグラフィカル・インターフェースやマウスを開発しながらその果実を享受することなく、アップルやマイクロソフト、IBMに豊かな市場を明け渡した。高い企業倫理と好業績のなかでも自戒するバランス感覚を備えた組織さえ、安泰ではないのがビジネスの世界なのだろう。
本書には個性的な人物が続々と登場するが、なかでも異彩を放っているのが第6章「最後の買占め――メンフィスの英雄、かく戦えり」の主人公であるクラレンス・ソーンダーズだ。名うての相場師リヴァモアを引き込んでウォール街に勝負を挑んだ逸話はそれだけでもドラマチックだが、事業家ソーンダーズが描いた未来図は革新的なアイディアに満ちている。彼は晩年にKeedoozle(キードゥーズル)という実験的な全自動式スーパーマーケットを立ち上げているが、その名は“key does all”(鍵一つで買い物ができる)に由来すると言われる。時代が少しちがったら、彼こそがワン・クリックのオンライン・ショッピング・モール第一号を創業していたのではないか。そんな想像をしながら本書を読み進めるのもじつに楽しい。