サバがマグロを産むとはなんとも信じがたいが、東京海洋大学の著者らは既に、ヤマメにニジマスを産ませることに成功している。結論から言ってしまえば、まだサバからマグロは生まれていない。それでも著者は、サバにマグロを産ませる研究は頂上までの道程の9合目に達しているという。この研究が発展すれば、人類と環境の関わり方はガラリと変わってしまうかもしれない。
本書はわずか115ページの中に、サバにマグロを産ませるという奇抜なアイディアを思いついたきっかけから、生物を扱う研究に伴う困難や失敗、地道な苦労を積み重ねた末にあるエウレカの瞬間まで、サイエンスの面白さが凝縮されている。最先端のバイオテクノロジーに基づく研究成果に驚き、あなたの生命観さえ揺さぶられるはずだ。なにしろ、この研究から「精子のもとになる細胞から卵ができたり、卵のもとになる細胞から精子ができたり」することまで明らかになっているのだ。
本書冒頭でも描写されるように、クロマグロの現状は危機的なものだ。2014年11月には国際自然保護連合の「レッドリスト」で、太平洋クロマグロが「絶滅の危険が増大している種」である絶滅危惧2類に指定されている。大西洋クロマグロの状況は更に厳しく、北西大西洋クロマグロは最も危険度の高い絶滅危惧種1A類(ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの)である。この危機の原因は、需要の増大に伴う過剰漁獲にある。我々の胃袋は、ウナギに続いてマグロまでも飲み込んでしまうのだろうか。
マグロ絶滅の危機を回避するための様々な取り組みがなされているものの、マグロを求める胃袋の食欲を抑えることは難しく、決定的な対策が取られていない。直近の中西部太平洋まぐろ類委員会で未成魚の漁獲量を2002~2004年平均の半分に減らすことが合意されたが、これは過去3年平均でみると6%の削減にしかならないものだという。
漁獲量を減らすことに加えて、マグロの生産数を増すことも重要となる。「近大マグロ」で広く知られる通り、天然資源から捕獲した幼魚を育成して産卵させ、その稚魚をまた育成して産卵させる完全養殖技術も開発された。しかし、成熟したクロマグロは体重60~80キログラム、体調1.5メートルにもなり、成熟サイズにいたるまでには5年ほどもの時間が必要となる。そのため、マグロの完全養殖には直径数十メートルの巨大な養殖場と、長年にも及ぶケア、つまり莫大な費用が必要となるのである。完全養殖による、減少速度を上回る上昇速度の達成には、想像を絶する規模の設備が求められるだろう。
もし、マグロより小さなサイズ、より短い時間で成熟するサバにマグロの卵を産ませることができれば、マグロの再生産がはるかに効率的となる(サバは体重300グラム程度で成熟し、成熟までの期間も1年程度)。サバの大きさであれば、海中のイケスではなく、環境の管理の容易な水槽で飼育できる。水槽飼育ならば、蛍光灯で昼間の長さを、サーモスタットで温度を調整することで、1年間に複数回マグロの卵を産ませることすら可能なのだ。
良いことだらけに思えるが、実現できなければ意味は無い。著者が「サバにマグロを産ませる」というSF的アイディアの実現性に気がついたきっかけは、博士後期課程時の偶然の出会い。魚の遺伝子組み換えを研究していた著者は、マウスの遺伝子組み換えに関する講演を聞いて、長く頭を悩ませていた疑問に答えを出す方法をひらめいた。このひらめきがどれほどのブレークスルーをもたらしたかを理解するためには、ES細胞や始原生殖細胞がどのような働きをするものかについて知る必要がある。本書ではこれらの単語を聞いたことがないという読者にもわかりやすい解説があるので、生物学の知識を深めつつ、画期的アイディアが生まれる瞬間を追体験できる。
そもそも、「サバがマグロを産む」とは何を指しているのか。体外受精が一般的な魚類において、マグロの受精卵をサバのお腹に入れても、「サバがマグロを産んだ」とは言えない。著者が目指しているものは、マグロから精子・卵のもとになる細胞を抽出しそれをサバに移植することで、継続的にマグロの精子・卵をつくり続けるサバをつくるというものである。この精子・卵のもとになる細胞が、卵から孵化したばかり、もしくは孵化直前の仔魚(魚の赤ちゃん)がもっている、始原生殖細胞と呼ばれるものである。
マグロの卵と仔魚は小さ過ぎて始原生殖細胞を採取することが困難なため、より大きな卵、仔魚を持つニジマスから研究が開始された。「ヤマメにニジマスを産ませる」というこれまた前代未聞の偉業達成のため、著者らは何度となく困難にぶつかる。そもそも、この研究以前には魚の始原生殖細胞を見ることさえ不可能だったというのだから、著者らの発想がいかに大胆なものであったかがうかがえる。
ニジマスの始原生殖細胞を採取でたとしてもヤマメの免疫系で直ぐに死んでしまうのではないか、細胞が生き残ったとしてもきちんと卵・精子を作り出すことができるのか。できない理由を探す方が簡単だったはずだが、著者らはヤマメにニジマスを産ませることに成功した。本書で語られるその過程は、難解なパズルを1つずつ解いていくように進められている。偶然のひらめきと考え抜かれた理論に支えられたその過程は、サイエンスの最先端が切り開かれていく難しさと楽しさにあふれている。
サバがマグロを産むまでには超えなければならないハードルがまだまだある。それでも、著者たちなら成し遂げてくれるのではないかという気にさせてくれる。サバがマグロを産む技術が確立されれば、トンビがタカを産む日もやってくるのだろうか。この研究がもたらすものは、マグロをたらふく食べられる未来以上のものかもしれない。
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