「世界で最も時間に正確」と言われる東京の鉄道網。「遅刻の基準」を比べると、他国との差は歴然だ。少し古い本ではあるが、『定刻発車』(三戸祐子著 交通新聞社)によれば、定時運転率の統計において、日本は1分オーバーから遅刻に数えるのに対し、海外では欧米であっても10分~15分過ぎて初めて遅刻とカウントされるところが多いらしい。日本だったらちょっとした騒ぎになるくらいのルーズ加減である。
だが世界の国々からすれば、変わっているのは日本の方だ。ある鉄道の国際会議では「君のところでは列車が遅れると社員を死刑にするのか?」と日本の鉄道人に聞く人もいたという。それほど日本とそれ以外の国々の間での、電車に要求される定時性のギャップは大きい。
本書は、そんな世界随一の定時運行を支える人たちについて書かれた本である。とはいっても、スポットが当てられるのは運転手でも車掌でも駅員でもない。取材先も駅ではない。ではいったい何処の誰について書かれているのか。
舞台は一日に約1400万人を運ぶJR東日本東京圏の旅客輸送を司る、東京総合指令室だ。そこには約500人の社員が所属し、「指令員」として24時間体制で現場の職員たちに指示を出している。セキュリティの都合上、場所は非公開となっているため、鉄道運行の心臓部のような機能を果たしていながらも利用者には気づかれない、「見えない職場」だ。本書はJR東日本の全面協力のもと、著者が指令室を訪れ、内部の様子やそこで働く方々にインタビューした内容をレポートしたものである。
セキュリティは非常に厳しく、写真撮影もNGだったそうで、本書には指令室の写真は1枚も載っていない。ただ、代わりにスケッチや資料を元にして著者が作ったイラストがあるので、それである程度様子が掴めるようにはなっている。実際、JR東日本の社員でも入るには複雑な手続きが必要で、一部の人しか入ったことがないという。当然取材を受けた例も少なく、分厚いベールの内側を垣間見せてくれる本書の存在は貴重に違いない。
著者が中に入った時、まず驚かされたのがそのスケールだという。指令業務を行う部分の床面積だけでも、最大1万人を収容できる「東京体育館のメインアリーナ」より広い。通常そのスペースで勤務しているのは150人程度なので、人が極端に小さく見えるそうだ。
そこに一般的なデスクワーク設備に加え、モニター画面や受話器、マウスなどが並んだ操作端末やダイヤ印刷用の巨大なプリンターなどの特殊機器が多数設置されている。それらを用いて運行状況を把握し、ダイヤが乱れたら復旧の計画を練って現場に指示を出したり、乗務員や車両のやりくりをしたりと様々なサポートをするのが指令室の業務だ。詳細は本書に譲るが「指令」にも色々と分類があり、東京総合指令室では「輸送指令」「運用指令」「営業運輸指令」「設備指令」の4種類の指令業務を行っている。
概要はこのくらいとして、実際の指令の雰囲気はどのようなものなのか。著者曰く、平常運行時は一般的なオフィスと変わらず、「100人以上の人が勤務しているとは思えないほど、静かだった」という。
しかし異常が起きれば一転、瞬く間に静寂は破られる。
「ピピピピ!」という異常を知らせる甲高い警告音が広い室内に鳴り響いた。その瞬間、指令員の空気が急に張りつめる。その場にいた指令員の顔つきが瞬時に変わり、機敏に動き出す。
「障検動作です!」
若い指令員が、両手を口に当てて大声で叫ぶ。
─(中略)─
すると、そのブロックにいた指令員たちが慌ただしく動き始める。
「場所はどこ?」
「運転士に確認!」
「東海道線○○踏切で踏切直前横断です!」状況確認や指示をする声が速いテンポで飛び交う。声が重なって聞き取りにくくなるので、指令員の声はどんどん大きくなり、騒然となる。徐々に声が声でかき消され、遠くで聞くと内容が判別できなくなる。
この障検動作とは、「遮断機が降りた後に人や車などが踏切内に侵入し、障検(障害物検査装置)が作動した」ことを示している。これは著者の取材中に起きた実際のケースで、その時は他の持ち場にいた指令員たちもダッシュで手伝いに駆けつけてきたという。
一刻も早く平常運行に戻すには、「初動」の早さが何よりも大切だ。異常の把握、ダイヤ復旧計画の作成、現場への指示、事故が起きた場合の報道機関への情報提供など、全てにおいてスピードが求められる。さらに終電後も作業はあるため、24時間365日、指令チームは臨戦態勢でいなければならないのだ。
そんな姿を、我々利用者は知らない。防犯性というやむを得ない事情があるにせよ、大勢の利用者にとって「当たり前」となった定時運行を縁の下で支える人たちのことを、その恩恵に与っている身として知っておきたいものだ。本書もそうした思いから書かれたのだろう。
本書には、指令業務に革新的な変化をもたらした運行管理システム「ATOS」や、思ったよりも大変な「途中駅折り返し」の仕組みなど、鉄道技術ライターである著者の解説が光る技術的な話も随所に盛り込まれている。総括指令長や鉄道事業本部長をはじめとする様々な人物へのインタビューで、運行管理システムの変遷や東日本大震災時の混乱など掘り下げた内容にも迫っている。
しかし読後に浮かぶのはやはり、人目につかない場所で日夜奔走している、指令員たちの姿だ。それは想像の域を出ないけれど、この先、駅で遅延に出くわした時に湧くのはイライラよりも感謝の気持ちだろう。また、少し大袈裟かもしれないが、指令員に限らず様々な「見えない仕事」に勤しむ人たちに対して、思いを馳せられるようになりたいとも思った。
来る東京オリンピックを里程標の1つとして、今後も鉄道は拡大していく。大会期間中は複雑な路線網による、観光客の混乱も予想されているそうだ。現場と指令、一丸となった対応が期待される。駅はもちろんだが、指令室もまた一段と忙しくなっていくのだろう。
日々の生活からビッグイベントまで、人知れぬ場所でサポートを続ける人々に迫った本書。鉄道を利用する多くの人に、ぜひ一読をおすすめしたい。
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