これからも日は沈み続けるのだろうか。それとも、いったん没しかけた太陽は自らを大きく変革し再び昇るのだろうか。あるいは成熟国家として、ある程度の富を保ちながら退屈ではあるが緩やかで穏やかな社会を、長期間にわたり維持し続けるのだろうか。その答えは誰にもわからない。なぜなら歴史とは常に一つの方向にのみ流れ続ける川ではないからだ。それに、私たちがどのような社会を建設していきたいのかというコンセンサスが今の日本社会の間にあるとも思えない。
ただ、今の日本が大きな歴史の分岐点に立っているという認識は広く共有されているのではないだろうか。そんな時代の空気感こそが、昨今の「日本は素晴らしい国」といった内容のテレビ番組の氾濫の原因でもあるのだろう。本書の著者も間違いなく日本は素晴らしい国だと思っている。しかし、それは日本人が好み、日本贔屓の外国人も同意するような日本人特殊論に依拠してはいない。
それ故に、日本人にとっては耳に痛い話も書かれている。ネット右翼と呼ばれる人たちが読んだら目くじらを立てて怒るかもしれない。太平洋戦争の原因に対する記述には反論もあろう。また従軍慰安婦の強制連行などの記述もある。だが従軍慰安婦の問題については、朝日新聞が誤報を認めてから著者はこの問題にたいして慎重な姿勢をみせているという。欧米の知識人の間でいかに朝日新聞が発した誤報が浸透してしまっているかということをあらためて思い知らされる。
そのような問題がありつつも、本書は日本人がどのような近代を歩み、また、日本社会にどのような価値観の争点があるのかを時に手厳しく、時に日本への愛情を込めながら解説する。本書はこれまでのステレオタイプとは違う視点の日本論を海外の人々に届ける事を目的にした本だ。だが、何より、私たち日本人が日本社会というものを見つめ直すとき、大きなひとつの視点を与えてくれる。特に日本が明治以降、脱亜入欧を目指し、脱亜には成功したものの入欧に失敗し、現在にいたるもその立場が宙ぶらりんのままという指摘にはハッとさせられる。
日本は島国である。日本人はことさらこのことを誇張する。確かに大陸から200キロという距離は、日本人が同じ島国としてときに強い共感をおぼえる島国イギリスよりも大陸から離れている。イギリスはしっかりと大陸の文化の中に組み込まれているとイギリス人である著者はいう。日本においてはこの微妙な距離感が日本人に及ぼした物理的、また心理的な影響がこの国の歴史と文化に様々な影響を与えていると分析する。日本人の認識がこの国の歴史と文化に影響を与えたとはいえ、このことを私たちは強調しすぎるきらいがある。著者はその点を鋭く指摘している。
『国家の品格』の著者である藤原正彦がインタビューで、東京医科歯科大学教授の角田忠信の研究結果(日本人の脳はほとんど全ての外国人とことなった働きをするという説)を例にだし、日本人は特別に情緒深く自然を愛する能力が高いという説を披露したときには、本著の著者、デイヴィッド・ピリングはこう切り返す。自然を愛する日本人がことさら雨を嫌がるのはなぜか、イギリス人は雨にぬれることをあまり厭わない、と。藤原の答えは「イギリスの雨と日本の雨はまったく違いますからね」だった。
日本の桜を深く愛するが、それは日本人の脳が脳機能マッピングで特別な働きを見せるからでも、日本人のみが持つ固有の感性でもない。桜はあくまでも日本人にとってある種の文化的なよりどころであり、親から子へと受け継がれ、詩人や哲学者によって解説されてきたものだと反論する。それは夏の美しいさかりに、村の共有の広場でクリケットとビールの苦みを特別な物として楽しむイギリス人の感性となんら変わるものではないのだ。
著者はさらに日本的なるものについて吟味する。そしてその多くは比較的に新しいものであると結論づけている。今のような形の神道と天皇のありかたや価値観も19世紀に起きた明治維新後に作られたものであるという。神道は元来、自然や自然現象を崇拝するアニミズムにもとづく民間信仰であったが、明治政府が神道を国家神道へと引き上げる過程で、複数存在した宗派が天皇の名のもとに統制されるようになる。また太平洋戦争後は国家神道と天皇崇拝に代わり、日本人は新たな神話を見出す。
それはGNP信仰と日本的経済成長モデルと企業文化だ。しかし、これらにも日本的なるものは本来存在しないという。政府主導の統制経済モデルは戦後、焼け野原の中で、戦後経済計画案の立役者である大来佐武朗らが、戦中の戦時経済を平時にも応用するという決断をしたことに起因する。私たちが日本的だと思い込んでいるものの多くがここ100年の間に形づくられたものなのだ。
では日本的なるものとはなんなのだろう。あるいはそんなもの存在しないのだろうか。本書にその答えはない。しかし、日本的なものと思い込んでいたものが、必ずしもそうではないと理解したとき、私たちは日本とはなんなのか?という問題をあらためて真剣に問う事が可能になるのではないだろうか。
バブル崩壊後、坂を転げるように下り続ける日本経済をみて、国内外から発せられる日本衰退論にも著者は懐疑的である。様々な企業の業績や事細かな数字を示しながら、日本がなお国際的に大きな役割を担うプレイヤーである事を丹念に説明する。しかし、その一方で、日本の成長神話が終わりを迎え、かつて日本人が信じてきた、すべての国民が中流階級でいられるという認識は日本国内でも急速に変わりつつあることも記述されている。
この点に関しては、作家の村上春樹や『絶望の国の幸福な若者たち』の著者である古市憲寿といった人々に丹念なインタビューを重ねることにより、無限級数的に発展した経済と、社会が決めたルールに従うことで確実に豊かさを手にできる「約束された道」の終焉と、そこから新たな道を見つけようとあがく日本社会をリアルな形で掘り出すことに成功している。
本書は原註を除いて610ページにも及ぶ作品だ。論じられているものも、政治、経済、社会、文化、外交と多岐にわたる。また多くの日本人の個人的なストーリーを織り交ぜ、様々な分野でその分野のキーパーソンの言葉を巧みに記述することにより、複雑で膨大な内容の日本論に血の通った温かみを持たせることに成功している。日本人は自らが本質と考えるものを守るため、ときに大胆にその社会を変容させてきたと著者は言う。今の日本社会はまさに変化の過渡期にある。私たちは何者で、どのような社会を築いていきたいのかという問いを多くの人々が問い続けているのではないか。本書はその問いを考えるための原点に私たちをいまいちど立たせてくれる。そんな作品ではないだろうか。
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