「わたしもカブトムシの幼虫になりたい!」
ある展覧会でその絵を見たとき、心からそう思った。気の遠くなるような無数の点描で描き込まれた、ふかふかの土のベッド。そこにくるまって休む、小さな生き物たち。こんな場所で冬を越せたら、どんなに幸せだろう。
描いた画家の名は、熊田千佳慕(本名・熊田五郎)。明治44年(1911年)、横浜に生まれた。2009年に98歳で亡くなるまで描き続けたライフワークは、『ファーブル昆虫記』の世界。本書はそのクマチカ先生が自らの人生を軽妙な筆致で綴った一代記である。
ハイカラな雰囲気で活気あふれる戦前の横浜、関東大震災、徴兵や空襲、日本デザイン界の夜明け……明治から昭和という激動の時代に翻弄されながら懸命に生きる姿は、時代の証言録としても価値がある。
裕福な開業医の五男坊に生まれたクマチカ先生、「10歳まで生きられない」と言われるほどの虚弱児だったが、幸せで恵まれた幼少期を過ごす。なかでも、赤ひげのように、弱い立場の人たちにも分け隔てなく接する父親への深い敬愛の念は、生涯消えることがなかった。
つかの間の平和な時代、デザイナーとして働くクマチカ先生をとりまくそうそうたる面々も、じつに興味深い。新潮社の葡萄のマークで知られるグラフィックデザイナーのパイオニア・山名文夫、報道写真やデザイン業界に先鞭をつけた「日本工房」社長の名取洋之助。そして、のちにリアリズム写真の巨匠となる写真家・土門拳との友情。
だが、戦争の影はクマチカ先生の人生も大きく変える。しかし、その困難な状況が、画家・熊田千佳慕を誕生させた。軍事演習で地面にはいつくばって草むらを眺めているとき、これが虫の目で見た天国だと感じ、「虫の絵は、虫の目の高さで描く」という後の仕事でのポリシーとなる画法を「神さまから授かる」。
そしてまた、物資が不足し、消しゴムもなく、安易な線も引けない状況で「ものをよく見て、見つめて、見きわめる」というプロセスを、「神さまから授かる」。
戦争が終わり、絵本画家となったクマチカ先生。これが、さらなる貧乏生活の幕開けとなる。1枚の絵に何年もかける、絵が細密すぎて印刷屋に嫌がられる、描いた絵は決して売らない……。
「埴生の宿」と名付けたボロボロの家でひたすら描き続け、いつの間にか70歳。ずっと貧乏。格式高い賞を受賞しても、展覧会が大成功しても、ずっと貧乏。それでも、画家・熊田千佳慕の名は高まり、テレビ番組でも取り上げられるようになる。やっぱり貧乏。95歳のときに「今年の抱負を語る」というテーマでテレビに出演したときは、
五日間のことだけを考え、ぶじに五日をすごせたら、また次の五日を考える。それより先のことは考えず、一日一日を大事にすごしています。
クマチカ先生の絵に感動するのは、そこに描かれた生き物たちへの深い慈しみにあふれているからだ。ファーブル昆虫記の世界を忠実に再現していたはずなのに、昆虫記には出てこなかった虫を描いてしまったことがある。
ガマガエルに食べられそうになったオサムシの絵を描いているとき、どうしてもそのオサムシを、たすけてあげたくなったのです。ボクはとっさに、ガマガエルの視線をそらすために、一匹のミツバチを飛ばしました。
冒頭であげた地中で越冬する生き物たちの絵も、厳しい自然のなかで生きている小さな生き物たちを、寒さから守り、温かく包んであげたいという愛が、「わたしもこのカブトムシの幼虫になりたい」という気持ちなってしまうほど、ひしひしと感じられたのだ。
そして亡くなる前年、
二年前の年明けには、「五日より先のことは考えない」といいましたが、いまではそれがもっと短くなって、一日先のことを、あれこれ考える余裕もなくなりました。だから、その日その日をどうやってのりこえていくか、一瞬一瞬が真剣勝負です。しかし、それはもしかしたら、ボクがずっとあこがれてきた、虫の世界なのかもしれません。
そう。自然のなかに生きる虫や生き物たちは、常に命の危険にさらされながら、懸命に生きている。でも、私たち人間だって本当は、必ず明日が来る保証なんて、誰にもどこにもないというのに。
虫のように一瞬を大事に生きる。それができたら、人生はきっと素晴らしい。改めてクマチカ先生から教わった。
ぜひ、クマチカ先生の絵を見てください。(本も素晴らしいけれど、できれば原画を見てほしい。感動します。)