時代、地域や人種の壁を超えて共通する「人間の本性」とは、どのようなものなのか。そして、その本性はどのようにもたらされたのか。性の進化を理解することが、これらの謎を解く鍵であると著者は説く。
いくらでも多くの子孫を残せる男と、出産に多大なコストのかかる女。異なる戦略を持つ2つの性の軍拡競争にも似た競い合いは、人類の誕生から数百万年間休まず続いている。なにしろ、異性を魅了し子孫を残さなければ、自らの遺伝子は消えてしまうのだ。狩猟採集生活では一夫多妻は珍しく、農耕生活では一夫多妻がありふれたものであることなどを通して、男と女の進化を支えた戦略を理解すれば、性を巡る争いとしての恋愛がもっと上手になる、かもしれない。
「人間の本性」という壮大過ぎるとも思われるテーマに挑む著者マット・リドレーの特徴は、その圧倒的な証拠の収集力とそれを1つのストーリーにまとめあげる論理の構築力にある。本書においても、知られざる生物の驚異的な習性や、様々な学者によって提唱されてきた進化の仮説が過剰な程に詰め込まれている。それでも、分厚い本の最後まで興奮とともに読み進めることができるのは、一見ばらばらに見えるエピソードが知らぬうちに1つの結論に収束していくからだ。本書は1995年に出版されたものの文庫化であるが、2003年に出版された原書リプリント版を受けて、一部手が加えられているという。
本書で進化を考えるための中心に据えられているのが、タイトルにもなっている「赤の女王説」である。1973年、海洋生物の化石を研究していたシカゴ大学のリー・ヴァン・ヴェイレンが「ある動物の科が絶滅する確率は、その科がこれまで存在してきた時間の長さとは無関係だという事実」を発見したとき、この仮説が誕生した。700万年前に登場した進化的新参者であるヒトは、3億年前からその姿を変えないシーラカンスよりも絶滅の可能性から遠ざかっている、というわけではないのである。
「赤の女王説」という名称は『鏡の国のアリス』に登場する赤の女王の、その場所にとどまるためには走り続けなければならない、という台詞に由来する。赤の女王仮説では、進化の世界を競争的かつ相対的なものとして考える。この仮説に基づいて性の進化を眺めてみると、驚くほどに様々なことが見えてくる。ひどく不合理に思える動物の習性も、オスとメスの熾烈なラブゲームの結果だと考えると、納得がいくものが多い。異性間の闘いの痕跡は、アフリカのコクホウジャクの不自然なほどに大きな尾羽にも、虫達のさえずににも、そして我々の行動にも現れているのだ。
そもそも、性は何のために存在しているのだろうか。自らの遺伝子を増殖させるため、という回答は十分ではない。なぜなら、性などなくても、細胞分裂や出芽など様々な方法で増殖することが可能であるからだ。ある世代ではセックスをして、ある世代ではセックスをしないという生物までいるというのだから、その意味を明らかにすることは容易ではない。事実、全く子どもを生むことのできないオスという一見不利な存在を抱えることになる有性が、全個体が子孫を残せる無性のライバルに駆逐されることなく繁栄したという事実は、多くの生物学者たちを悩ませた。本書では、学者たちがどのように議論を戦わせて、より確からしい理論を構築してきたかが詳細に解説されている。実は、目には見えないウイルスなどの寄生者がその進化に大きな役割を果たしていたことが明らかとなる。
進化とは何か、性とは何かを学んだあと、本書の議論はいよいよヒトの男女の違いへと進んでいく。著者は繰り返し、あらゆる生物においてオスとメスの間に形態及び行動の差異が存在し、ヒトも生物の一種に過ぎないことを強調する。そして、本性としての差異(男と女の本質的な違い)をどのように考えるべきかの示唆を与えてくれる。
進化からいかなる種類の道徳的結論も引き出すことはできない。子どもが誕生する前に、男女の性的投資に不平等があるのは人生の真理であって、それは道徳に反する訳ではない。「自然」なのである
「自然」であることと正しいということはイコールではない。チンパンジーが集団で殺しを行うからといって、殺人が自然な行為として正当化されることはないのだ。
「人間はなぜこうも似ており、かつなぜこうも異なるのか?」を問い続けた本書を読み終えるころには、進化や性についてのしっかりした理解と新たな視点がもたらされているはずだ。性の進化からヒトの歴史を振り返ると、ヒトの動物らしさが、ヒトのヒトらしさが、より愛おしいものに思えてくる。男と女の違いや個体間の多様性が、世界をより豊かなものとしていると思えてくる。そして、金子みすゞの言葉が思い起こされる。
みんなちがって、みんないい。
戦争は「人間の本性」といえるのだろうか。農耕を生み出すはるか前の原始時代の人類から現在まで、地球全体を対象に人類の戦争の歴史を振り返る。果たして戦争は人間に組み込まれた本能なのだろうか、それとも戦争は乗り越えるべき課題なのか。アザー・ガットも「赤の女王仮説」を引用している。レビューはこちら。
生まれか育ちか、だけでは語りきれない生命の真の姿をとらえるために重要な概念となる、エピジェネティクス。エピジェネティクスで説明できるユニークな現象を数多く紹介しながらも、その裏で機能する仕組みもしっかりと説明してくれる。塩田春香のレビューと青木薫の解説。
人類進化の歴史を振り返ったマット・リドレーがたどり着いた結論は、「合理的楽観主義」。これまた圧倒的なボリュームで人類がどのようにアイディアを生み出し続けてきたかを明らかにする。