『中国人物伝1』by 出口 治明
中国文学の面白さを縦横無尽に語ってきた最高の語り部、井波律子が中国人物伝(全4巻)を出すという。その話を聞いただけで、これはもう読むしかないと観念した。第1巻は、春秋戦国時代から秦漢帝国まで、春秋五覇の斉の桓公から東漢の班超までを取り扱っている。
本書は2部構成をとる。第一部は「乱世の生きざま-春秋戦国時代」。まず呉越の戦い。何回読んでも臥薪嘗胆の物語は面白い。夫差と伍子胥VS勾践と范蠡。最後には伝説の美女、西施が登場する。宋代以降、西施が我が身を犠牲にした悲劇のヒロインと化す一方、范蠡の方は、西施には目もくれなかった明哲保身の存在として理想化される。古代から語り伝えられてきた「ぬけぬけとパワフルな范蠡・西施の恋物語は、近世の士大夫美学によって駆逐されてしまったのである」、なるほど。「好むこと、楽しむことを何よりも重視した」孔子の学びの姿勢。自由志向型の隠者と禁欲型の隠者。蘇秦のようなトリックスターや荊軻に代表される恐るべきテロリスト達。春秋戦国時代の際立つ個性が著者の鮮やかな筆使いによって今に甦る。
第二部は「統一王朝の光と影-秦・漢」。桁はずれの醒めた合理主義・機能主義を終生貫徹した天才、始皇帝。だからこそ中国の統一が成し遂げられたのだ。粗野なエゴイストでありながら「自分にない能力をもつ配下を評価し、彼らにその能力を全面的に発揮」させた人使いの名人、遊侠あがりの劉邦。武帝の時代に元号制度が出現するが、それは「皇帝は空間のみならず、時間をも支配するという発想にほかならない」。圧巻は「女たちの漢王朝」である。「低い階層から浮かび上がった代々の漢王朝の皇后のうち、衛皇后のような悲劇的末路をたどった例はない。衛皇后の先輩たちの人生は、上昇する時代の気運を象徴するかのようにひたすら高みをめざしつづけたのである。これに比して、高みから奈落に転落した衛皇后の運命は、極盛期をすぎ下降へと向かう漢王朝の未来をはるかに予告しているようにも見える」。著者は「男性原理の精髄」たる儒家的政策にもかかわらず、「漢がいかに深く女性原理に浸透された王朝であるか」を逆証明しようと試みる。そして恋に生きた司馬相如と行動する大旅行家でもあった怨念の大歴史家司馬遷。本書はその多くを「史記」に拠っているのだ。
著者は文学者であって歴史家ではない。歴史家は、例えば蘇秦の実在やその真の姿に迫ろうとする。しかし著者は、次のように述べる。「たとえ蘇秦像が、戦国の遊説家たちのイメージを凝縮して形成されたものであったとしても、それはそれでいっこうに差し支えはない。こうして形成された蘇秦のイメージこそ、舌先三寸、戦国時代を揺り動かした遊説家たちの存在のありようを生き生きとした臨場感をもって具現しているのだから」。だからこそ、著者の語りはオーソドックスであるにも関わらず面白くて、それぞれの個性がめいっぱい生き輝くのである。早く2巻、3巻、4巻を読みたいものだ。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。