「特殊清掃 戦う男たち」というブログをご存じだろうか。特殊清掃(以下:特掃)の世界に20年以上も身を置くある男性が、「特掃隊長」というペンネームで特掃の仕事について綴ったもので、2年ほど前に5年分の記事を一部抜粋してまとめた単行本が刊行された。
一部でとても話題になったこともあり、ご存じの方もいるかもしれないが、1か月ほど前に新書サイズの携書版が発売されたということで、HONZで初めて紹介してみたい。
特掃の仕事内容は、人間遺体・動物死骸・糞尿・山積ゴミなどに関係する特殊な汚染や汚損を処理するというもの。凄惨な現場や過酷な作業を強いられることも多く、なかなか陽の目を見ることのない職業だ。著者は特掃の先駆企業に勤めており、他にも納棺を行う遺体処置や、遺体を病院から遺族宅へ送る遺体運搬といった業務を行っている。ちなみに「特殊清掃」という言葉は著者の会社がつくった造語らしい。
普通に生きていてはなかなかイメージが湧かないが、人は死後も放っておくと、腐り溶けていく。自然現象とはいっても、凄まじいグロテスクさだと著者は言う。室内での自殺や孤立死などで、死後しばらく経って発見される場合は、遺体の一部が液状化し、部屋の床などに染み込んでしまうことが多いという。その腐乱液を拭き取り、汚染を処理する様子も本書ではたびたび描かれる。強烈な悪臭は言うまでもなく、大挙するハエやウジとも格闘しなければならない。他にも多種多様な現場を経験してきた著者は、こうした遺体処置業務を10000件以上こなしてきたという。
元の3~4倍もパンパンに膨れ上がって、体液が染み出した遺体の処置。ドロドロとした遺体痕の中から故人の歯が出てきた、浴槽の清掃。淡々とした筆致からでも十分すぎるほどの衝撃を受ける。読み始めはそうした壮絶な仕事環境にどうしても目が行ってしまう。
しかし、本書は怖いもの見たさや好奇心を刺激するだけではない。本書では、様々な人の死と、残された人の思いが著者の目を通して描かれる。むしろ読者は「もしもの時」や、「いかに生きるか」について考えさせられるだろう。
毎日をせわしなく生きていく中では、死を身近なものとして捉えるのは難しい。だが本書には、それが「特殊」な世界の話ではないと読み手に思わせる力がある。
そこには著者の人となりが大きく影響していると思う。何か諦念のようなものが混じった、良い意味での人間臭さが感じられるのだ。
内向的、悲観的、神経質、臆病、怠け癖、泣き虫、ネクラなどなど、その性格に多くの問題を抱えるくたびれた中年男である。
休日返上の勤務が入り、気分が落ちこむ時もある。それでもなんとかやり遂げ、感謝された時にはやりがいを感じる。そんな感情の起伏や喜怒哀楽が率直に、時に苦笑を誘う冗談も交えながら書かれていく。凄まじい日常にもかかわらず、読み手にどこか親しみを感じさせる文章なのだ。
「生まれ変わっても同じ仕事を選びますか?」
以前、取材の雑誌社にそう聞かれたことがある。
「絶対に選びません!」
私は間髪入れず即答。
すると、記者は困ったように苦笑い。どうも、欲しかった答えと違っていたらしかった。「使命感はあるの?」
そう聞かれることもある。
答えは「No!」。
崇高な精神など持っていない。頭では食うための仕事と割り切っている。それでも感情を排して作業しきることはできない。そんなやるせなさが付きまとうのが、特掃の宿命なのだろう。
「故人は何歳だったんだろう」
「なんで自殺なんかしたんだろう」
「この手段を選んだ理由はなんだろう」
「家族は大丈夫だろうか」
などと、少しでも考えてしまうと心臓が重くなる。「俺は、ただの掃除屋だ」
と、必死に割り切ろうとしても、一度ついた特掃魂の火は消えない。
こうなると、しんどい。故人と汚物と自分との三角関係において、三位一体になったような現象におちいるからだ。
そんな状態では、作業がツラいのか、この現実が重いのか自分でもわからないままイヤな脂汗が出てくる。ときには涙も流れる。
汚染痕と化した故人に相対し、その人生に思いを馳せる。特掃を依頼した、遺族や友人、知人たちの驚きと悲しみと思いやりにふれる。逝った人と残された人それぞれから著者が死を学び、生を学んでいく過程が、本書を通してわずかながらも追体験できるのではないだろうか。
自分の死や愛する人の死……つまり、人生と残された時間の有限性を知ることが大切だと思っている。
これらを知ることは、なにも重病を患う人や高齢者だけの特権ではない。今日という一日が、今という瞬間がどれほど貴重なものであるか、悠久の時と人生の儚さを思えば、容易に感じ取ることができるだろう。
本書は「死ぬ時のことなんて考えてもムダ!」と思う人にこそ読んでほしいと思う。
死に対する認識が根本から変わるような、養老孟司先生の解説と合わせて読めば、世界の見え方がきっと変わるはずだ。