本書は「主観的な感覚や意識はどこから生じてくるのか?」という問いに関する最新の研究成果が紹介された一冊だ。意識の研究ほど、広く根源的なテーマはない。私が死んだら、私の意識はどうなるのだろうか?犬には意識があるだろうか?コンピューターが人間と同じような意識を持つことはあり得るだろうか?
「コッホ博士、私にはサルに意識があるとはどうしても思えません!」
そこで私はすかさず言い返した。
「あなたに意識があることも私にはわかりませんよ。」
本書の著者は、カリフォルニア工科大学で教鞭をとり、アレン脳科学研究所のChief Scientific Officerを兼務しているコッホ教授である。DNAの2重らせん構造を解明したフランシス・クリック教授と共に、長らく意識と脳の問題(マインド・ボディ・プロブレム)の研究を行ってきた。
神経系の働きと主観的な意識感覚とのあいだをうまく繋ぐ科学的な理論は未だ見つかっていない。本当に生まれたばかりの領域である。哲学の世界では、「主観的な意識」は科学の言葉では永久に解明できない「ハード・プロブレム」であると主張する意見もある。しかし、コッホ教授は意識は科学で解明可能だと信じており、ライフワークとしてこれに挑んできた。その期間、20年以上。この深遠なテーマの研究をこれだけ長期間継続し、成果を出し続けてきたコッホ教授は、一体どのような人なのだろう。
客観的な事柄だけではなく、著者の自伝的な回想や、個人的な想いが書かれている事が本書の特徴の一つだ。敬虔なカトリックの家庭に生まれ、科学を志すようになった少年の時期の話、家族やペットとの死別、動物実験についての意見、魂の存在についての考えなどが脳研究紹介の間に入り、最先端の研究を行う著者の身近な一面が感じられる。日本語訳は弟子である土谷教授が担当しており、時には「超訳」も辞さなかったという内容は(私のような)分野外の人間にも大変わかりやすく、かつ詳細だ。
本書に挙げられた成果を知れば、教授が「意識を科学で解明できる日が来る」と信じていることが不思議ではなく感じられるだろう。fMRI等の技術の進歩や臨床における観察により、脳の仕組みは日に日に詳細に理解されてきた。
たとえば、「右目に入力する画像が、左目に入力する画像に邪魔されて意識されなくなる実験」等により、「脳への刺激」と「それが意識される」ということは別であることが示される。「意識」は、脳の複数のパートが連動した場合にだけ発生する現象なのだ。
本書はここから「意識と無意識」についての研究成果を紹介し、「自由意志と決定論」について議論する。そしてその後、非常に有望な研究として紹介されるのが、ジュリオ・トノーニ教授の「統合情報理論」だ。
おおまかにいえば、「統合情報理論」とは次のようなものだ。
あるシステムが経験する「意識のレベル」は、システムが全体として生み出す情報量から、システムの構成部分が生み出す情報量を差し引いたものに等しい。
詳細については本書をご参照いただきたいが、非常に私の印象に残ったのは、この理論が、「発火できる可能性を持っているにも関わらず発火していないニューロン」を重要視するということであった。
脳は過去を記憶するシステムであるが、「今まで見たことがない赤い色」や、「いつかどこかで見た景色」は、「発火できるが発火しないニューロン」によって表現できる。
脳へのインプットに最初に反応するニューロンの発火回数は非常に多いが、「概念」を司どるニューロンの発火は非常に稀であるという記述も面白い。これは情報理論の表現では「スパース(まばらな)・コーディング」と呼ばれている。得られた知見が音声認識に応用されているそうで興味深い。
もちろん、著者自身の研究テーマは情報理論だけではない。今や、分子生物学、レーザー光、光ファイバーを融合させた技術「オプトジェネティクス」によって、ある特定のニューロン集団のみを光で興奮させることができるようになった。逆に興奮を遮断させることも可能だ。今週、マウスの記憶を書き換える関連実験がニュースになった手法である。アレン研究所にはこの分野の実験の達人がおり、「意識が生まれるためには、脳の前部と後部にフィードバックループが生じ、ニューロンが同期して発火する必要がある」という著者の仮説が検証できるかもしれないという。脳の活動を観測して「意識メーター」を作成することも可能かもしれないそうだ。そうなったら「悟りの境地」の状態もわかるだろうか。禅問答をしている達人の脳は、どのような状態なのだろうか?意識の研究は、これからも目が離せない。
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