あちこちを飛び回って花粉や蜜を集める働きバチと、じっと巣の中で卵を生み続ける女王バチ。同じ両親から生まれていながらも、全く異なる生涯を過ごすこととなるハチたちの運命を分けたものは何なのか。遺伝だろうか、それとも、与えられる栄養や環境の違いが彼らの運命を違えているのだろうか。
この謎を明らかにする鍵は、エピジェネティクスにある。著者は、エピジェネティクスは、ゲノム(全遺伝子)情報だけでは説明できない生命現象を「理解するために付け加えられた、新しい必修科目」であるという。そう、DNAを構成する4つの塩基(AGTC)の並び方を分析するだけでは理解できない生命現象がたくさんあることが分かってきている。塩基配列の変化を伴わないエピジェネティックな変化は、働きバチと女王バチを分けたように、我々の人生にも大きな影響を与えている。
胎児期に飢餓経験をしたヒトの生活習慣病の罹患率が高いこと、アサガオが様々な色や形の花を咲かせること、そして自閉症の発症などにも、エピジェネティクスが関与している可能性があるという。「可能性がある」としたのは、明らかにされていない部分が多いからだ。著者は生命現象とエピジェネティクスとの関係を「エピジェネティクスだけでほぼ説明できる現象」、「エピジェネティクスも関与している現象」、「エピジェネティクス以外では説明が難しい現象」といった具合に未知と既知の境界を明確に切り分けながら、非常に慎重に筆を進める。
どのような生命現象が観測されているのか、その事実からどのような仮説が提唱されうるか、その仮説を支持する事実はどの程度の強度を持っているか、何が分かっていないのかが丁寧に解きほぐされていく。そして本書は、エピジェネティクスとは何であるか教えてくれるだけでなく、トマス・クーンやカール・ポパーを引きながら、科学的発見とはどのようにもたらされるか、それを生み出す科学者がどのような思考で物事を見ているかまでをも伝えてくれる。個人レベルでのDNA解析による病気予防までもが可能な時代を生きる我々に、センセーショナルな情報に振り回されないためのリテラシーを与えてくれるのだ。
本書には専門用語も多数登場する。例えば、中盤に登場するマウスの毛色とエピジェネティクスの関係を説明する箇所は以下の様な調子であり、生命科学から遠ざかっていた人には、ある種の呪文にしか聞こえないかもしれない。しかし、きちんと著者の論を追っていけば、理解できる喜びがもたらされるはずだ。
DNAのメチル化では、DNMTによってシトシンにメチル基が付加される。そのメチル基はSAM(S-アデノシルメチオニン)という基質から供与されるが、SAMの合成は葉酸やビタミンB12によって亢進することがわかっている。
このような詳細な説明は省略して、エピジェネティクスと関連のある生命現象だけを紹介する本とすることもできたはずだ。ところが著者は、DNAと遺伝子の違いから順を追って、生命現象を支配する原理原則を説明していく。DNAはどのように情報を伝達しているのか、ヒストン修飾、DNAのメチル化とはどのような意味を持つのか。もちろん、複雑な生命現象の背後で機能する仕組みを理解する過程は容易なものではない。多くの人が本書の前後を行ったり来たりしながら、頭をひねりながら読み進めていくことになるだろう。
あえて困難な道が選ばれたのは、報道も含めた現代サイエンスを取り巻く環境に危惧を覚えたためだ。著者は、本書執筆の意図を以下のように書いている。
科学的な成果が新聞などで紹介されるとき、これでバラ色の将来が描けるといったコメントがよく書かれている。もちろん正しいときもあるが、楽観的にすぎるのではないかと思うこともしばしばだ。(中略)面白さと重要さを紹介するだけでなく、あいまいなところや、これからの研究の難しさも含めて、エピジェネティクス研究の現状を書いたつもりである。
知られざる動物の生態や驚くべき脳の働きなど、自然の壮大さを象徴するような現象に感嘆することもサイエンスの大きな楽しみの1つであることは間違いない。しかし、サイエンスの本当の面白さは、そのような驚くべき現象を理性の力によって解き明かすところにあるのではないだろうか。自然を精緻に観察し整理することで、ランダムなように見える個々の現象を支配する規則を見つけ出す。そして、バラバラだった世界が秩序を持ち始める。その過程は困難かもしれないが、いや困難だからこそ、乗り越えたときの喜びは大きく、自然の驚異を改めて噛みしめることができる。知恵熱を出しながらも自分の理解を広げていくことで、サイエンスの面白さを伝えてくれる一冊である。
塩田春香によるレビューはこちら。
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