「どうせ直に兵隊に取られるのだから、今のうちに思いっきり野球をやっておきたい」
甲子園準優勝投手の林安夫は1942年に朝日軍に入団。ルーキーイヤーのこの年、32勝22敗、防御率1.01の記録を残し、最優秀防御率のタイトルを獲得した。これらの数字自体、素晴らしい数字だが驚愕するのは投球回数と先発試合数。投球回数541回3分の1、先発試合数51。この2つは今でもプロ野球記録として破られていない。
科学的管理が進み、先発ローテーション制や投手の分業制が確立した今、今後も破られないだろう。ただ、これらの登板過多とも思える状況は、強制されたものではなかった。それを物語るのが冒頭に引用した林の発言である。
漫画「あぶさん」のモデルにもなった景浦 將、川上哲治とのバッテリーで有名な吉原正喜、「伝説の大投手」嶋清一。そして、沢村栄治。若くして戦場で散った野球選手は少なくない。本書は7人の野球人の生い立ちから最期までを描いている。輸送船ごと撃沈された者、終戦間近に運悪く地雷を踏んでしまった者、冒頭の発言の林のように戦場での詳細がわからないまま戦死扱いを受けている者もいる。
著者は当時の戦争下に置かれた日本の状況には多くを語らない。彼らの決して長くはなかったが太かった人生をなぞることで、「国のため」と「野球をしたい」という公と私に揺れる若者たちの心理の葛藤を静かに炙り出す。
本書を通じて、印象的なのは佐賀商業のエースとして活躍、プロ入り後にノーヒットノーランも達成した石丸進一のエピソード。学徒出陣して、特攻を志願した石丸は出撃の前日にキャッチボールをした。10球ほど投げたあと、「これで思い残すことはない。報道班員、さようなら」と傍らの報道班員に笑みを浮かべたという。その報道班員こそが後の大作家の山岡荘八だ。石丸は10球のキャッチボールに何を込めたのか。山岡はなぜ心を揺さぶられたのか。
著者は言う。「時代の不条理とは常に単層構造では存し得ず、その実相を描くには百万言あっても足りない」。だが、本書は確実にその実相を描く一助になっている。