感動を飛び越してショックだ。こんな面白い講義をリアルタイムで受けている京大生には、同じ大学生として嫉妬全開である。まあ、受験生時代のセンター試験の点数を聞かれたらぐうの音もでない訳だが、学校が違えばこんなに違うものかとつい思ってしまう。
そんな悩ましい程面白い講義とは、京都大学屈指の人気を誇る、「生命の化学」。その中から生徒に好評だった部分を選りすぐり、実際の講義の流れに沿ってまとめたものが本書なのだ。
しかもこれがただの人気講義ではない。ハーバードやMITといった世界的名門大学によって設立された国際オンライン教育機関である、edXにて今年4月から、この講義の模様は世界中にネット配信されている(edxからの配信としては日本初)。つまり、世界トップレベルというお墨付きを受けた超人気講義がこの一冊に収まっているという訳だ。
早速、気になる講義の内容を、プロローグより抜き出して紹介しよう。
この講義では生物学と化学の両方を題材にして、アイデアを出す力を養う。歴史の瞬間をなぞるだけでなく、実際の研究の裏にある人間の考え方を推理する。
そう、この講義のねらいは優れたアイデアを生み出す発想力を磨くこと。一応、理科系の1,2回生向けの講義となってはいるが、実のところは誰もが興味を持つに違いない、「アイデアを出す講義」なのだ。
さらに抜粋。
化学は「物質を作り出す学問」でもある。生き物を本当に化学で理解したのならば、生き物の仕組みを化学で人工的に作ったり、化学の力で生き物の営みを操る物質を創造したりすることができる。
そこに新しいアイデアが生まれるのだ。この分野で、頭脳明晰な世界の科学者が優れたアイデアを出してきた。アイデアの出し方を学ぶには好都合な分野だ。
この最初の5ページのプロローグを読むだけでも、本書の切り口が、「科学的思考」とやらを謳って、文系人間を誘う類のサイエンス本とはひと味違った、斬新なものだとわかるはずだ。読み始めて2分で、なんだかワクワクした気分にさせられる(実際に、そこだけ読んでレジへと直行)。
家に帰ってじっくり読み進めていっても、その期待は裏切られない。むしろ読むにつれ、気づくのだ。斬新なテーマももちろん興味深いのだが、この講義の面白さの源泉は、魅力的な教授にある、ということに。
教鞭を執る本書の著者、上杉志成教授は、1967年生まれの京大OB。同校で博士課程取得後はハーバード大化学部で博士研究員、その後同じく米国のベイラー医科大での准教授職を経て、2005年に30代にして母校の教授となった、一流の化学者だ。
しかしそんな輝かしい経歴もさることながら、本書から見えてくるのは、優れた教育者としての顔である。全8講、一貫して、「名講義に名教授あり」と言わんばかりのカリスマ性が炸裂する。
まず、話が圧倒的に分かりやすい。難しい言葉を決して使わず、図も適度に用いられているので、リレンザやタミフルなどのインフルエンザ薬の作用の仕方から、キャリー・マリスが開発したPCR法のメカニズムまで、何かと取っ付きにくかった化学の話がざっくりと理解できる。(文体イメージとしては内藤順のレビュー調の真逆、といった感じだろうか。もちろん、賛否を表明しているわけではない)。
随所に添えられる喩え話にもセンスが光る。例えば、「水素結合」と「疎水性結合」のイメージを喩えるなら、前者は「LOVE」で、後者は「LIKE」だそうだ。ここでいうLOVEとは、男女の間に生まれるような、異質なものを求める力。LIKEは、友だち同士の間にあるような、自分と似た感性や価値観を求める力。ここまで聞くだけでも、それぞれの結合がだいたいどんなものなのかイメージが湧いてくるはずだ。しかも簡素な喩えでありながら、それぞれの結合力の強さだけでなく、水素結合ならばHとOやNなど異質なもの同士が惹かれあう、疎水性結合ならば油っこい物質など同質なもの同士で惹かれあう、といった本質的な部分までしっかりと表現されているからすごい。
合間に飛び交う「雑談」も、とても面白く、ためになる。次から次へと話が広がっていくから、読んでいて全く飽きない。例えば、2枚のココアクッキーとその間に挟まれた白いクリームのハーモニーがたまらない、クッキー界の重鎮、オレオについてまずは話し始める。オレオは歴史上最も売れたクッキーらしいが、実は他のクッキーの模倣品なのだという。そこから今度はオレオがとった戦略、「ファスト・フォロワー戦略」について触れてビジネスの話へと展開し、そこから製薬業界でのファスト・フォロワーの事例としてタミフルの話へつなげ、最後にインフルエンザ感染の仕組みの話に落として講義本来のテーマへと話題を戻す。他にも話題は小説、音楽、オススメのお寺、ユニークな中華料理店、などなどバラエティーに富みまくっていて、著者の底なしの好奇心には驚かされる。しかも一見散らばっているように見えるそれぞれの話題は、「アイデアを出し、実行した話」という軸でつながっていて、読者は無意識のうちにインスピレーションを刺激されるのだ。
本書は様々な人にオススメできると思う。アタマを柔らかくしたい人はもちろん、サイエンスに馴染みがなかった人はその面白さを感じることができるだろうし、学校の先生だったら生徒を引きつける講義をつくる参考になるかもしれない。読む人によって、それぞれ異なる収穫があるだろう。
最後に、エピローグのこの言葉に触れて終わりにしたい。
「大学の講義というのは、推理小説に似ているのではないか」
推理小説には伏線が必ずある。今すぐには役に立たないが、後になって「あの時のあれは…」と、解決のヒントをもたらす。
いつか、本書の内容がふと思い出され、アイデアを閃く助けになるかもしれない。
本書を読んで、そんな伏線を脳内に張り巡らせみてはいかがだろうか。
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