あなたは、ジャミラを知っていますか?
人間の心を失いかけた可哀想なウルトラ怪獣。
あの頃、どれほど多くの少年がTシャツをかぶり「じゃーみーらーだーぞー。じゃーみーらー」と言ったことか。みんなやったさ僕もやった。そして樫原さんは、ジャミラの模型をつくった。
僕は二十歳になるかならないかという年頃で、大学生だった。
時は1980年代、「ガレージキット」が世の中に出てきた頃のことである。
ガレージキットとは、大手の会社ではなく、個人が、自分で作った「原型」を元にして作った組み立てキット、いわばインディーズのプラモデルのことだ。大阪在住の川口さんが、仕事(歯科技工士)のスキルを趣味に活かしたことが嚆矢となった。シリコンとレジンを用いて複製された部品は、市販のプラモデルを超えるインパクトを持ったのだ。
この流れを後押ししたのは、当時創刊された『宇宙船』であった。もともとはSFや特撮を紹介する雑誌だったところが、編集者の聖咲奇さんが模型をアジテートしまくった結果、全国のアマチュアモデラーに火をつける結果となった。そして、そろそろ学校に行くのが面倒臭くなってきた大阪芸術大学2回生の樫原さんにも火がついた。立ち読みした『宇宙船』に載っている超リアルなゴジラに目を奪われ、ガレージキットを初めて知ったのだ。
これは革命や!
自分の手でプラモデルを作って、自主製作のメーカーになる、というのが凄い。価値観がひっくり返るのだ。
本書は、今やアメリカ自然史博物館から制作依頼が来る程のブランドとなった世界の模型メーカー「海洋堂」がまだ小さかった頃、何者でもない大勢の若者がそこに集い、宮脇館長の「模型をアートに!」「海洋堂を模型の梁山泊に!」の激の下、ただひたすらに好きなものを作った、そんな時代の当事者の記録である。
店に足繁く通い続けた樫原さんは、いつしか(宮脇一家の親戚に似ているという理由で)「モドキ」と呼ばれるようになり、いつしか工房に招き入れられるようになった。
海洋堂は模型の梁山泊、それはつまり、朝8時から昼休みを挟んで5時まで仕事で模型を作り、仕事が終わった後は、趣味で深夜まで模型を作るという生活を送る場であった。商品にならなくても、それが模型である限り海洋堂においては全て意義のあることだ。ただし、出来が悪いと痛烈にバカにされる。皆、造形物を見る目があり、また、口は底なしに悪かった。そこには、後に村上隆プロデュースにより世界的に有名になった、“帽子にメガネ”のボーメさんがいた。『キングコング対ゴジラ』で道場破りさながらの登場を果たした、お好みムーミンさんがいた。今では社長になっているセンムさんがいた。社長のセンムさんだ。
模型の梁山泊、それはまた、岡田斗司夫さんが作ったライバル会社ゼネラルプロダクツと、時には喧嘩し、時には手を組んで切磋琢磨していった場所でもあった。ゼネラルプロダクツがメーカーからプロデューサーに移行していく一方、海洋堂は東京にギャラリーを作り、メーカーとしての地位を確立していく。後に海洋堂が「チョコエッグ」などの数々のヒットを飛ばし、ゼネラルプロダクツがアニメに展開してガイナックスを作り『エヴァンゲリオン』を生み出した、その根底にあるパワーは、臆せずやりたいことに集中する姿勢だったのではないか。そう思わせるエピソード群が、本書に描かれている。楽しかっただろうなあ。
海洋堂、50周年。河の流れのように人が出ては入り、モドキさんは、カタログ製作の失敗の後、会社に行かなくなった。大学も中退した。本書は、あの頃はまだ何者でもなかったと述べる著者が、それから20年以上経ち、監督した映画の公開に際して再訪する場面から始まる。「心臓がバクバク言っている」
「どや、モドキ、みんな変わってないやろ」
こちらの心中を見透かしたようにセンムが言った。
みんな、あのとき魔法をかけられたから、時間が止まってるんや
宮脇館長のブログより。かっこいいです。