みなさんはトマス・ハーディの『テス』を読まれたことがありますか? わたしは一応読んでいるのですが、もうずいぶん昔のことで、自分がそのときいったいどんな感想を持ったのかも、ほとんど思い出すことができません。しかし、この作品中にストーンヘンジが出てきたときに、一瞬、かすかな違和感を覚えたことはなんとなく記憶しています。
もちろん、イングランド南部を舞台とする『テス』に、その地方に古くからある遺跡が出てきたところでなんの不思議もありません。でも、わたしにとってストーンヘンジは、「世界名作文学」の舞台というよりはむしろ、「ミステリーサークル」とか、「古代の天文台」とか、そこからさらに「宇宙人との交信」とか、いわば「川口浩探検隊」的な(古い話ですいません……)世界に属していたんですよね(^_^;)
わたしが覚えたかすかな違和感は、そんなミスマッチ感だったのかもしれません。
ストーンヘンジが、そういうタブロイドっぽい雰囲気をまとうようになった原因のひとつは、本格的な科学的研究が行われてこなかったからなんだと思います。ちょっと意外なことに、この超有名な遺跡については、石のサークル内外をちょこちょこ調べたぐらいで、大掛かりな調査はほとんど行われてこなかったらしいのです。
『ニューヨーカー』誌の4月21日号には、そんなストーンヘンジ研究の歴史や、今日のストーンヘンジの冬至や夏至に集う「新ドルイド派」と言われる人たちのことなどが、興味深く紹介されておりました。以下では、その記事の中から、考古学研究の新潮流「ランドスケープ・アーケオロジー(景観考古学)」の取り組みに的を絞り、その成果をかいつまんでご紹介したいと思います。
「ランドスケープ・アーケオロジー」とは、それぞれの遺跡を孤立した現象として見るのではなく、むしろ大きなネットワークの一部とみなし、そこに生きた人々を、環境という文脈の中でとらえようという試みです。ストーンヘンジについては、2003年に、その観点に立つ「ストーンヘンジ・リバーサイド・プロジェクト」がスタートしました。
それにしても昨今の考古学は、最新の科学的手法のおかげで、精度がどんどん向上しているのですね。放射性同位体を使った測定では、わずか数十年ほどの誤差で、年代を同定できてしまうようです(石器時代の遺跡から出てきたものの年代を数十年の誤差で……って、すごいです)。また、たとえば食事内容についても、どういう地質の地域で飼育された豚が、生まれてから何ヶ月ぐらいで、どの季節に屠殺されて食べられたが、といったことまでわかってしまうらしいのです。
次に示す図は、そんな高い精度で調べられたストーンヘンジ周辺のネットワークの様子です。この図には、「ストーンヘンジ・リバーサイド・プロジェクト」で得られた成果の中でも、主要なものだけを拾い出して描いてみました。
まず、ストーンヘンジそのものについてですが、この建造物が、これまで言われてきたような、普段から使用されていた(ドルイドの?)宗教施設とか、天体観測施設とかではなく、そのものズバリ、お墓だったようなのです。いわば「ストーンヘンジ火葬墓地」ですね。
ソールズベリー平原に視野を広げると、冬至の頃に、広範囲から(おそらくはウェールズやスコットランドからも)大勢の人々が集まってきて、ストーンヘンジから三キロメートルほど北東にある、「ダーリントンウォールズ・フェスティバル村」に滞在し(←この名前はわたしが勝手につけました^^;)、飲んだり食ったりして、祝祭の日々を過ごしたようです。
そして、亡くなった人の遺体は(これに関する詳細はわかりませんが)、おそらくそのままエイボン川に流したのではないかと考えられるようですが、身分の高い人たちの遺体は、エイボン川を下って、ストーンヘンジ・アヴェニューを進み、ストーンヘンジに運ばれ、火葬のうえ埋葬されたと考えられています。図ではその道のりが矢印で示されています。
こういった推測は、発掘で出土したものを分析した結果にもとづいており、かなり信頼性が高そうです。
ひとつ残る大きな謎は、なぜストーンヘンジが、夏至の日の出と、冬至の日没に、向きをそろえるように建設されているか、ということです。そもそもそれが、「ストーンヘンジ=天文台」説の元になっているのでした。(夏至の日の出と当時の日没との位置関係については、図の左下に部分を参照してください。)
この「ストーンヘンジは、なぜこの向きに建設されたのか」という問いに対する新しい答えは、「ストーンヘンジ・リバーサイド・プロジェクト」の成果の中でも、おそらくはもっとも推測を含み、それゆえもっともホットでスリリングな部分ではないかと思います。
それをご説明いたしましょう。まず、図の真ん中よりも少し左にある、赤で引いた短い平行線に注目してください。リバーサイド・プロジェクトが始まってしばらくした頃、この場所に、平行に走る畝状の構造が見つかったのです。かつて「ストーンヘンジ・アベニュー」だった部分、現在は草に思われた部分をわずかに掘ると、その構造が姿を現したのでした。
当初プロジェクト・チームの考古学者たちは、これもまた天文現象との関連で人工的に作られた構造物かもしれない、と考えて色めき立ったそうですが、その後詳しく調べたところ、この平行に走る畝は、氷河期に形成された天然の地質構造だと判明したのです。なんだ、人工物ではないのか、と、考古学者たちはちょっとがっかりしたそうです。ところがあるチームメンバーが、ストーンヘンジが建設された時代には、この構造は地上に露出していたはずだ、と指摘すると、新たな解釈が浮かび上がってきたのです。
おそらく当時の人々は、その構造が、夏至の日の出と冬至の日没の方角をぴったりと指していることに、何か神聖なもの感じ、ストーンヘンジをその向きに合わせて建設したのではないか、と。
その可能性は十分考えられますが、もしもタイムマシンで4000年余り前のストーンヘンジ建設現場に飛び、関係者に質問したら、「いや、そうじゃなくて……」と言われないとも限りません(^^;)。そういう解釈上の曖昧さは、考古学にはどこまでもついて回るのかもしれませんね。それでもわたしは、(その構造の写真など見ますと)言っても説得力があり、たいへん面白い解釈だと思います。
ところで、リバーサイド・プロジェクトの中心的な考古学者であるマイク・パーカー・ピアソンは、ひとつの仮説として、この地域では(というより、おそらくはかなり普遍的に)「石は死者のために、木は生者のために」使われたのではないかと言っています。実際、生者のためのフェスティバル村は木造のウッドヘンジ、新石器時代最大の墓地とみられるストーンヘンジは、その名の通り石が用いられています。もしかすると、このアイディアに沿った調査が、イギリスに五十以上もあるという、さまざまなヘンジのネットワークに、新たな光を投げかけるかもしれませんね。
下にご紹介するのは、「ストーンヘンジ・リバーサイド・プロジェクト」の成果をまとめた書籍です。