写真は被写体のどこまでを表現することができるのであろうか。人間という存在はその体内に無限ともいえるような心の広がりと、どこまでも続く深淵のような精神を宿しながら、それでいてごく些末な日常の中を生きている。誰しもが自身の心の広がりと精神の深さを感じつつも自己の精神の中に深く潜る事を避け、表層の部分に現れる些細な感情の中に生きる。自身の中に深く潜り、心の表層に現れる感情の根底を探ることは、とても時間のかかる行為であり、また多くの苦しみを要する。だがその広がりと深みがなければきっと人間という存在は、もっとつまらないものであったであろう。
人間の中に宿る精神の神秘を時に写真家という職業は、見事なまでに炙り出す時がある。だが、それは決してどのような写真家にでも可能な行為ではないであろう。本当に自身の心の深みと対峙したことのある者にしかそのような芸当はできないのではないか。人間という名の小宇宙が、外界との境として存在させている肉体という物質的な表面の上から、その内界の深みを覗き見ることはとても難しい行為だ。ためしに、あなたが身近な人々の写真を撮ってみるとわかると思う。
たとえ、身近な人の笑顔や構えた表情の写真を撮る事が出来ても、あなたの知る、彼らの深い内面を他者に感じさせるような写真を撮ることは難しいはずだ。やはりそのような写真を撮るには、写真家としての確かな技術と、人間という存在の深さを本当に理解したごく限られた写真家にしか不可能なことなのだ。そして本書の著者、管洋志もそんな写真家の一人であろうと私は感じた。
管洋志はアジアに生きる人々を愛し、その写真を長年撮り続けてきた写真家だ。彼は特にバリに暮す人々に惹きつけられたようだ。昼間は田で農作業に勤しむごく普通の人々が深夜に行う宗教儀式により、トランス状態に陥る姿は、神に少しでも近づこうとする、人々の不思議なエネルギーと狂気に満ち溢れているという。
本書でもP44からP59までの間に彼が愛したバリの人々の無邪気な日常と、深夜に開放されるエネルギーに満ち溢れた姿の対比が良く写しだされている。P47の農作業の写真では、カメラを向ける著者に、おどけた姿でポーズをとる女性が写っている。その笑顔の屈託のなさと、周りでそんな彼女を見つめ、笑う女性たちは、農作業をする女性たち独特の泥臭さと、その泥臭さの中に垣間見せる、女の強さと美しさをのぞかせている。が、しかし、それはどこにでもいるごく普通の農婦の姿だ。
ページをめくっていくと、そんな女性達が川で水浴びをし、艶やかな民族衣装に身を包み、華やかな化粧に彩られた姿へと変化していく。そんな写真を眺めながらさらにページをめくると突然、暗闇のなか、松明の光に照らし出された女の写真に出会う。そして女の隣のページには踊り狂う男たちの姿。炎の明りの中に浮かび上がる男女の姿は、間違いなく、生と死、神と人間の世界が今よりずっと近くに存在した、古から続く人間本来の姿ではないのかと、写真を食い入るように見つめてしまう。おそらく、日本でも古の神楽舞や祭りなどはこのような神秘とエネルギーに満ちた世界であったであろう。
実は著者はバリ島でみた、このような宗教儀式と同じ性質のものを日本の意外な場所で発見している。それは日光東照宮だ。バリと東照宮に何かしらの共通点を感じた著者の神道の起源を探る、思考と写真の軌跡は興味深い話だが、本書にはその部分が載っていないので、ここでは触れないことにする。興味のある方は、こちらを是非見て欲しい。
本書ではバリの写真で狂気を写した作品は二点のみ。踊り狂う男女の二点の作品を飽くことなく眺めたのち、ページをめくると朝の世界。つまり人間たちの世界へと作品は移る。そこには、また静かな姿をしたはにかんだ笑顔と人生の喜びと憂いを宿した瞳を向ける人々の写真だ。さらにページをめくると民族衣装に身を包みながら化粧する女性たちの写真と、夕焼けに赤く染まった海岸の写真。今宵も変わることなく繰り返される、太古から続く人間と神との交信。それは、自身の精神に宿る神性との対話でもあるのだ。管洋志の写真を見ると、人間の精神に宿る神性に気づかされることになる。
本書にはほかにもネパール、インド、アフガニスタン、タイ、ブルネイ、ベトナムなど様々な国の人々の写真を見る事ができる。過酷な自然の中で生きる人々の写真。対戦車ロケット弾やAK47を抱えた眼光鋭いカンボジアの青年たち。深く皺を刻んだラオスの老婆からにじみ出る時間というものの重み。薄汚れた道路にひしめくように暮す、見るからにエネルギーに満ち溢れたベトナムの人々。
押し寄せる現代の文明と西洋的な暮らしと伝統文化。その狭間に存在し急速に変化し続ける社会に生きる彼らの姿はたくましく、神秘的でエネルギーに溢れ、どこまでも人間くさい。そして人間のみが放つこのできる悲しみを、その瞳は湛えている。
私たちが生涯で出会うことの出来る、異国の人々の数はどうしても限られてくる。そしてそれらの人々と出会えたからといって、その生活や文化の染み込んだ、内面世界に触れる事ができるとは限らない。本書は私たちがその一生を通しても、決して出会う事の出来ない人々の姿と湿潤な東南アジアに花開いた文化とその精神性を垣間見せてくれる。
しかし、アジアを愛した彼の新たな写真を目にすることは二度とない。本書の著者、管洋志は昨年4月に大腸がんのため、逝去しているのだ。この写真集は菅洋志の一周忌を機に出版された写真集である。最後に著者の言葉を抜粋して終わりにしたい。
ある国の人々が美しいかどうかは、その文化がどれだけ生活に馴染み、緊張と同時にゆとりをもたらしながら、活性化され続けているかによるのではないか。バリ島の人々の美しさはそれをしめしているかのようだ。