イケそうでイケない。
別にイヤらしい意味ではなく、そういう絶妙な距離感にあるのが「秘宝館」という存在であると思う。興味はあるのだが、わざわざそのために足を運ぶほどの気にはなれない。かといって何かのついでに行くというには、あまりにも不自然な場所にある。
だが、本書によると、そう悠長なことを言っている場合でもなさそうである。かつて北海道から九州まで少なくとも20館は存在していた秘宝館が、2014年4月現在で残すところあと2館のみ(鬼怒川、熱海)。2007年に日本で最初の秘宝館「元祖国際秘宝館伊勢館」が約35年の歴史に幕を閉じ、2014年3月に西日本随一の規模と内容を誇る「嬉野の秘宝館」までもが閉館するという、散々たる状況なのである。
そもそも秘宝館とは、性をテーマとした遊興空間のことである。これらのパンフレットを眺めると、「伊勢路衝撃の珍名所」、「世界唯一を誇るズバリ必見エロスの館」、「愛と性をさぐる神秘のセックス城」、「魅惑に満ちた愛のひとときを、大人の遊艶地・あなたのラブファンタジー」など、秘宝館ポエムに満ち満ちており、それだけで雰囲気を伺い知ることが出来るだろう。
そして、ある特定の時代に、温泉観光地という特定の場所に、分散しながら同時発生的に成立し、ある特定の時代に衰退していったという実に不思議なワンダーランドであったのだ。
「海辺の恋人」 @熱海秘宝館(P146)
「熱海の貴婦人」(P148)
とは言ってもこの秘宝館という存在を分析するにあたり、どの角度から眺めるのかというのは非常に難しい問題である。なにせ単一の秘宝館においても「ギリシャ神話コーナー」「アニマルパラダイス」「陰部神社」「保健衛生コーナー」等、何でもありの”ごった煮”状態なのだ。
これを著者は、「複製身体の観光化」という側面から読み解いていく。この分析自体も明快で、切れ味抜群なのだが、やはり前提にあるのは、分析する対象がいかに脈絡のないもので構成されているかということである。馬の交尾実演ショーから保健衛生コーナーの医学模型までという秘宝館の歴史を、写真をふんだんに使いながら追いかけていく部分があってこそ本書は面白い。
意外なことに秘宝館の歴史は比較的新しく、その誕生は1970年代であったという。「元祖国際秘宝館伊勢館」の創設者・松野正人氏が伊東から熱海に向かう途中、女性の生殖器をもつ観音像が観音開きで公開されているのを見たことによって生まれたというから、この時点で既に何かがおかしい…
最も象徴的なのが、「保健衛生コーナー」と名付けられた身体模型の展示である。「娯楽のなかに医学の展示があるという落差が効果的だ」と考えられ、性病のパネル、避妊具、妊娠子宮模型などが展示されていたようである。
「性病」のパネル @元祖国際秘宝館伊勢館(P64)
「いのち誕生」(P65)
その思いつきはともかく、展示としての特徴を理解するためには、「細工物」「生人形」「人体模型」「衛生展覧会」と続いてきた複製身体の展示という文脈から考えると、新たに見えてくるものがある。
つまり、秘宝館は衛生展覧会のような啓蒙としての機能を継承しながら、さらに性的な要素を強化することにより、新たな観光産業として成立したという一面を持つのである。衛生啓蒙のために展覧会で展示されていたような医学展示を、観光客向けの私的な遊興空間に変換したというわけだ。
そしてもう一つ着目すべきなのが、伊勢以降に誕生した秘宝館においては、これらの医学的要素が除去されていったという事実である。それらと入れ替わるように導入された要素が、日本古来の性信仰であった。
伊勢以降に生まれた秘宝館は展示場の入り口に、道祖神を展示することが多かった。宗教から入れれば、お客さんもためらいがないだろうという狙いで、民間信仰を秘宝館に取り込んでいったのだ。その存在を正当化するための、建前としての道祖神とは、なんとも大胆な話である。
いずれにておいても共通するのは、見世物として「道徳性」と「娯楽性」を両立させながら、奇跡的なバランスで融合してきたということである。伊勢の秘宝館では医学模型と性的な等身大人形がそれぞれの役割をもち、伊勢以降の秘宝館では、性信仰と等身大人形が双方の役割を担っていたのだ。
さらにこのプロトタイプを基本構造とし、全国の温泉観光地にアミューズメント性の強い秘宝館が発展していく。
この発展を支えたのが、1970年代当時の時代背景であった。モーターリゼーションによる団体バス旅行の増加、女性の余暇活動の活発化、そしてテレビが普及した結果として「参加する」アミューズメントへの欲求などが挙げられている。
インフォメーションをコミュニケーションとして消費する、今では当たり前のような光景の先駆けを、まるでタイムスリップしたかのように、この秘宝館という歴史の中に見ることが出来る。その後、さまざまな時代の変化によって、衰退の一途を辿ってしまった秘宝館。だが、コミュニケーション消費の原体験を、消えてしまう前に巡っておくのも一興ではないかと思わせてくれた。
痴的なものを知的なまなざしで。猥褻以上 芸術未満の、まさにアカデミック・エンタテイメントな一冊である。
(画像提供:青弓社、ページ数は妙木忍『秘宝館という文化装置』内において)