僕の至福の時間は、大きい本屋をあてもなく歩き回り、目に飛び込んできた本をそぞろ読む時間だった。ベンチャー企業を経営するようになって、時間がなくなり、こうした楽しみは奪われてしまったが(今は、主として新聞の書評で代替している)、どれだけの大書店であっても、本書は、真っ先に目に留ったに違いない。フェルメールの大好きな1枚(の1部分)をそのまま表紙に使っているからだ。鬼才ウエルベックの最新作である。
不思議な物語である。3部から成る本書は、ジェド・マルタンという現代の成功したアーティスト(写真家、画家)の伝記の体裁をとっているが、主人公に次ぐ最も重要な登場人物として、「世界的に有名な作家、ミシェル・ウエルベック」が顔を出すのである。つまり、ウエルベックがウエルベックを描いているのである。しかも、およそ尋常ではないやり方で。
美術学校を出たジェドは、ビーチリゾート施設の一括請負に事業を特化した建築会社の忙しい社長である父と、若くして自殺した母との間に生まれた。祖母の葬儀に向かう途中、父に頼まれて買ったミシュラン製15万分の1縮尺の地図を開いたジェドは、そのあまりの素晴らしさに「美学的啓示」を得て、道路地図の写真に熱中するようになる。
ある展覧会でジェドの作品に強く魅かれたスラヴ美人オルガとジェドは、たちまち恋仲になる。オルガは、ミシュランの広告担当者だった。ジェドの才能に気付いたオルガは、ジェドの個展を計画する。オルガは、現代アートの領域では最高のプレス担当マリリンをジェドにつける。マリリンは、ひどい猫背で鼻水の止まらない小柄で貧相な女性だった。ジェドの個展は大成功し、ミシュランはジェドの作品のネット販売を始める。ジェドはあっという間に裕福になる。
しかし、昇進したオルガはミシュラン社の指令でロシアに帰ることになった。休暇の終わりのシャトーホテルでそのことを打ち明けられたジェドは、声が出ない。オルガは言う。「あなたは答えるまでに時間がかかる人ね・・・」「決心がつかない、ちびのフランス人さん・・・」。オルガが去った後、ジェドは道路地図の写真を捨て、絵画に回帰する。こうして哀切な第1部が終わる。
第2部は、それから10年後。ジェドは第2回目の個展を開くことになった。今度は絵画展だ(例えば、「ビル・ゲイツとスティーブ・ジョブス、情報科学の将来を語り合う」と題した肖像作品など)。そのカタログに執筆してほしいとジェドはアイルランドに隠棲する世界的に有名な作家、ウエルベックを訪ねる。ウエルベックは承諾する。今回もプレス担当はマリリンだが、彼女は明るくルックスも良くなり、鼻水ともおさらばしている。
ジェドは突然ウエルベックの肖像を描きたくなる。かつてオルガはジェドにこう言った。「情熱的な眼差し、それこそ、何よりも女たちが求めているものなのよ」。ジェドはウエルベックにも、この眼差しを認めたのだ。ジェドはウエルベックを再訪し、写真を撮る。それをベースに肖像画を仕上げた。この傑作を最後にジェドが画筆を取ることは、もはやない。
個展はまたもや大成功を収め、ジェドは億万長者になる。死期の近づいた父は、クリスマスにジェドを訪ね、若い日の芸術とビジネスとの間で揺れ動いた自分の彷徨を話す。ロシアから帰国したオルガとジェドは再会するが、元には戻らない。フランスに帰国したウエルベックに、ジェドは肖像画を届ける。
第3部は、常軌を逸した犯罪小説となっているので、ここでは内容に触れるのはよそう。ただ、猟奇的な事件とは対照的に、ジャスランとエレーヌという普通のカップルが登場する。2人の平凡で温かい日常は、ジェドやオルガやウエルベックの孤高とは、明らかに一線を画している。第3部の筋立てには様々な見方があり得よう。それが、本書の「毒」の1つの大元になっているのだろう。
僕が本書に魅かれたのは、登場人物の口を通して語られるウエルベックの価値観に共感するところが多々あったことも、1つの要因だろう。「驚くべきケースですよ、トクヴィルというのは・・・」。「ル・コルビュジエとは乱暴で、全体主義的な精神の持ち主」。「ノーベル経済学賞などというものが存在することはまったく驚きだ」。そして、ピカソのことを「途方もない愚かしさと、絶倫風の殴り書き」と言い切る快楽は。
また、本書は実験小説としても極めて完成度が高い。その最たるものは、ジェド・マルタンという現在アート界最高の芸術家と、その作品をペンの力で創造してしまったことだ。本書を読み進めていくうちに、読者の眼前にはジェドの作品が明確な輪郭線を持って、浮かび上がってくる。これは恐るべき筆力である。実在の人物(それも著名人)が数多く登場すること、また、カメラや自動車などのメカニックな説明が長々と続くことも、文体に一種、独特の不連続な、それでいて不思議な魅力を秘めたリズムを生みだしている。
一見、人生の倦怠がテーマであるかのように装ってはいるが、その裏には緻密な計算が隠されている。ジェドの晩年(写真に回帰していた)と、最期を語るエピローグも、絵画的なイメージが実に強烈だ。読むべき小説であることに、全く疑いはない。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。
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