文庫本として出版するにあたり、広報セクションを通してあらためて関係者の方々よりお話を伺った。
東日本大震災より3年近い月日が経っていたが、皆さんのご記憶は鮮明だった。
それだけ、あの災害は、皆さんにとって忘れえぬ思いが、体に刻みつけられていると、今更ながら深い思いに浸った。
私自身も、幾つかの記憶がある。
その多くが「恐怖」だ。
家々を呑み込む大津波、漆黒の闇の中で燃え続ける港町、激しく炎上する石油コンビナート、なにが起きているのかわからない原発事故、そして文字通りに墨を塗りたくったようになった計画停電の町——。
しかしそれだけではなかった。
被災地へ足を運び、様々な関係者の方々よりお話をうかがうにつれ、本当は、もっと大変なことが起きていて、そのことを誰も知らないのではないか、その思いに呪縛されはじめた。
その思いは、関係者やマスコミの方々も同じであったことも驚きだった。
「本当は、重大なことが、ひたひたと進行し、そのことに誰も気づいていないのではないか?」
何人もの人から聞かれた。
また、関係者から言われた言葉に息を飲むこともあった。
「恐れていたことがついに起きてしまいました」
ある国際医療組織に登録した医師からの話も、私にとっては恐怖を増長するものとなった(同医師の実名での話は、掲載上の手続に時間がかかり、文庫化においても間に合わなかった)。
その医師は、チームとともに、東日本大震災の直後に東北に入った。自衛隊の偵察部隊のオートバイがまだ走り回っていたというから、かなり初期に入っていたことになる。自力でガレキを乗り越え、被災地を目指した。ある村に入り、老女を診察すると、とても喜んでくれた。老女は、自分の貴重な食事を医師に分け与えてくれようともした。医師は涙が出て止まらなかったという。
そんな頃、チームにある情報が入った。ヘリコプターが調達できる。原発近くで医療ニーズがある。希望者を募りたいと。
そのとき、チームの誰もが無言となった。手を挙げる者はいなかった。
世界の数々の紛争地域、それも銃弾が飛び交うような世界で命懸けの医療活動をおこなってきた猛者たちが逡巡したのだ。
私は、被災者でもないのに「恐怖」に苛まれるようになった。
そんな中で、私は、東北に向かった。
恐怖の実体を、自分の目で確かめたい、という気持ちが突き動かしたのかもしれない。
そのとき私は知ることとなった。
恐怖と立ち向かっている、余りにも多くの人々の存在を。
私は強く思った。
彼ら、あるいは彼女たちの姿を何としてでも記録に留めたい——。
ところが、いざ取材に入ると、私は愕然とした思いに襲われた。
東北のある場所で、危険を顧みずに最前線で活動されている方と会ったときのことだ。
なんと言って声をかけたらいいのか、言葉が頭に浮かばないのだ。
ごくろうさまです、おつかれさまです——そんな言葉が、余りにも軽く思えた。不謹慎だとさえ思った。
最前線で活動する関係者たちの言葉で、深く記憶に残っているものは数多い。
例えば、福島第1原子力発電所での活動をした自衛隊関係者の言葉だ。
危険な活動をされていることで、心配する気持ちを投げかけたとき、その関係者が言った言葉が今でも忘れられない。
「覚悟はすでにしています」
それに何も言えなかった自分がそこにいた記憶がある。
その他にも忘れえぬ言葉はたくさんあるが、多くの方々が、ふと洩もらした、たわいもない言葉について紹介したい。
「若い女性スタッフが作ってくれた。それも形が歪だったことがすごく感動した」
「体の芯まで凍り付きそうになったとき、それはあまりにも暖かく、よしがんばろうという力となった」
最前線の修羅場において、多くのプロフェッショナルたちが、「おにぎり」に感動し、いかに自分を奮い立たせる原動力となったかを語ってくれた。
不眠不休で疲労がピークに達しているとき、寒さに筋肉が硬直して苦悶する中、「おにぎり」に救われたというエピソードに、人間の強さと弱さとを同時に感じないではおれなかった。
DMAT事務局長、小井土雄一医師の言葉どおり、危機管理の最大のリソースとなるのはひとりひとりの人間である。ゆえに、そのとき、そのポストに誰が座っているかによって、危機対応はガラリと変わる——そのことを痛切に感じた。それこそ人間の真の姿なのだとも。
本書はヒーロー伝ではない。その人間が、自然の力の前に、余りにも弱く、苦悩し、恐怖に震え、涙した。しかし、それでも人知れず、力強く、前へ進み続けた者たちがいた。その姿があったことを知ってもらいたい——それが本作品に托した希望である。
新潮文庫
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