なにもかもが久しぶりの経験であった。
書店でなかなか見つからず、店員さんに「『エロのデザインの現場』って本、ありますか?」と聞いてちょっと恥ずかしかったこと。電車の中で隣の人に覗きこまれないよう、表紙に角度をつけてガードしながら読まなければならなかったこと。家に帰ってきてからも妻に見つからぬよう、大きめの写真集の隙間に背を奥側に向けてしまうなど細心の注意を払わなければならなかったこと。
誤解のないように強調しておくが、本書は別にエロ本ではない。エロ本のデザインを司った男たちの物語、そしてその制作現場について書かれた本である。だが、それでも眉を潜める人というのは少なからずいるだろう。かくもエロ本には人権がない。しかし本書を一読するだけで、エロ本は恥ずかしくて隠さなければならないものというイメージがきっと払拭される。
登場する9人のデザイナーは、いずれもエロのデザインをすることが好きでかっこいいと思うからやっている人たちばかりだ。しぶしぶエロのデザインを引き受けたわけでもなければ、お金だけが目当てでもない。かっこいいことをするための「遊べる自由度」が高いからやっている。その結果、たまたま媒体がエロ本であったに過ぎない。
当時のエロ本は写真をモノクロで使うことすら『冒険』っていう時代で、すべてのページが肌色じゃなきゃいけないという相当遅れた代物だったんですが、逆に肌色の総面積をキープしてりゃデザイン的には何やってもいいんでしょってことで。(古賀智顕)
デザインというヒエラルキーのなかでは完全な底辺なわけです。だからぼくはそこに行きたかった。つまり、なにも期待されてない。でもそれが逆に、自由なことができる場、実験的なこと高度なことをやっても誰にも文句を言われない場として、ものすごく魅力を感じて入ってきたんです。(こじままさき)
性欲と表現欲、二つの欲求に折り合いがついた時、まさに革新が生まれる。エロ本黄金期をクリエイティブで牽引したデザイナーたちの仕事ぶりとは、いかなるものか?そのいくつかを「抜いて」みたい。
職業柄、日々痛感しているのだが、デザイナーには大きく分けると二つのタイプがいる。作家タイプか、それともソリューションタイプか。要は営業の言うことに耳を傾けるかどうかの違いであり、余談だがここを見誤るとたいていの仕事は上手くいかない。
作家タイプの典型とも言えるのが、アルゴノオトこと、古賀 智顕である。エロ本はダサくて隠したいもの、という負のイメージを先鋭的なデザインワークで塗り替えた。彼を一躍スターダムに押し上げたのがバブル期以降の『URECCO』の表紙である。
モデルの水着姿を中央に据え、天にはURECCOのロゴを控えめに置き、キャッチーな欧文と丸いトレードマークを主張するでもなく下に配置する。通常あるべき特集の煽りであるとか掲載モデルの名前など、中身を紹介する文字はいっさい置かない。
また古賀デザインを象徴する言葉としての「古賀ブラック」。これはC60×M60×Y30×K100という4版を掛け合わせることで、より深みのある黒をキメに使うというものだ。どれをとっても「エロ本らしからぬ」かっこよさに溢れている。
さらに本書では、これら伝説のデザイナーのその後を追いかけ、現在の仕事場の様子も押さえているというところが、一歩踏み込んでいる点だ。雑居ビルの一室のようなところでシコシコ作っている様子などを想像すると、期待は見事に裏切られる。その趣きは、まさに『東京の仕事場』のエロ本版。
沖縄のかつて離島だった小さな島にそびえる黒鉄の城。そこが現在の古賀の自宅兼仕事場である。建築家をして、”完成に3年を費やしたこの建築の作家は「私」ではなく「クライアント自身」だ。”と言わしめたこのコンテナハウスにも、制作プロセスを含めた古賀自身のデザイン哲学がぎっしりと詰まっている。
続いて、エロのデザインを底上げしたと言われる野田 大和。彼もまた確固たる自分のスタイルを持ち、主にSMを主戦場とした作家系デザイナーである。オタクの極みがアカデミックの領域に進出したとも言われる野田のデザインは、読者受けを狙う思惑など全くなく、それゆえに短命に終わることも多かったという。
3人目は、編集長からデザイナーへという異色の経歴を持つ小西 秀司。編集長時代は、風俗情報誌を実利一辺倒のオヤジ臭のするものから、イメージやムードを提供するものへと進化させた。デザインに関しては、「俗っぽくなく、シンプルですっきりした中になにを違ったものを入れたい」という志向を持っているそうだ。
最後は、斬新なデザインで100万部の金字塔を記録したデザイナー・大賀 匠津。女優の顔に水をぶっかけ、その瞬間を表紙にしてしまった『ザ・ベストマガジン』は、さほどエロ本に詳しくなくても、見たことのある人が多いのではないだろうか。彼のコメントを読んでいると、良い按配でソリューションタイプの気質が混じっており、それがミリオンにつながったものと推察する。
振り返れば、かつて雑誌はもっとウェアラブルな存在であったと思う。常に持ち歩き、人前でも読み、周囲には何を読んでいるのかが伝わり、それゆえ雑誌の表紙は、どのような嗜好を持つ人間かを表現するシグナリングの役目を負っていた。
それがたとえエロ本であったとしても、同様であったのだろう。エロというテーマの特殊事情が、より強い制約を生み出し、それがデザイナーによるクリエイティブの高みへとつながった。本書に登場する多くのデザイナーが「人前でも持ち歩けるかっこいいエロ本」を目指していたというのは、決して偶然ではないのだ。
雑誌不況と呼ばれ、マーケットサイズの今昔を中心に悲観的な話題ばかりが目立つ時代である。事実、本書に登場するエロ本のほとんど全てが既に存在しない。だがクリエイターたちの昔の作品と今の仕事場、二つを照らしあわせて見ると、そこには不思議なくらいにドライな空気が流れていることに気付かされる。
黄金時代を支えた作り手たちは過去のノスタルジーなどにふけることなく、気持ちは完全に次のフェーズへと向かってしまっている。そもそも雑誌とは時代やターゲット層の年齢変化とともに移り変わっていくことを宿命とする卒業ありきのメディアなのだ。そしてそれは読者とて同じではないだろうか。
ある雑誌が、たまたまその時期の自分にとって面白かったということであり、深みのはまればもっとディープなものを求めていくだろうし、未来永劫同じ雑誌に面白さを感じ続けることの方が、レアケースと言える。それがエロ本という移り気で多感な時期をターゲットにするジャンルのことであれば、なおさらのことであるだろう。
雑誌とはいつかは卒業しなくてはならない期間限定メディアの集合体であり、作り手と読み手の一回性を楽しむものである。そんな雑誌の持つ魅力のエッセンスを、エロの世界を通して十二分に感じ取ることが出来るから実に不思議だ。
エロ本をエロくない方の目で眺めてみたら、何が見えてくるのか?そんな深遠なる課題に、果敢に挑んだ一冊。
(※画像提供:株式会社アスペクト)