『ニューヨーカー』誌の2013年12月23日&30日合併号に、マイケル・ポーランが「植物に知能はあるか」というテーマで力作レポートを寄せていました。ポーランは、カリフォルニア大学バークレー校でジャーナリズムのジェームズ・ナイト教授職にあり、本を書けば毎度ニューヨーク・タイムズのベストセラーリスト入りを果たすという売れっ子ノンフィクション作家でもあります。それに加えて、彼はアマチュアの料理人でもあるんですよね。最新作”Cooked”については、本稿の最後でさらっとご紹介いたしますが、なにせ売れっ子なので、タイトルよりも著者の名前の方が目立つカバーとなっております(^^ゞ
さて「植物に知能はあるか?」と聞いて、「それってトンデモ?」と思った方もいらっしゃることでしょう。そう思われるのも無理はありません。なにしろ、「植物には感情がある」とか「植物は人間と心を通わせることができる」といった話には、似非科学に彩られた長い歴史があるからです。
もちろん、植物を擬人化したりアニミズムの対象としたりすることは、どこの文化でもはるか昔からごく普通に行われてきました。しかしそれが近代科学の装いをこらして華々しく登場したのは、1973年のことでした。この年に刊行された『植物の秘密の生活(The Secret Life of Plants)』(ピーター・トムキンス&クリストファー・バード著、邦題は『植物の神秘生活--緑の賢者達の新しい博物士』)が大評判となり、ニューヨーク・タイムズのベストセラーリストにも入ったのです。著者のトムキンスとバードはこの本の中で、れっきとした植物学の研究成果といんちきな実験結果とをごった煮にして、一般の読者に大盤振る舞いしたのでした。植物には感情があるとか、音楽ではロックよりもクラシックを好むとか、何百キロも離れた人間の心に反応することもできる、等々。こういった話、きっとみなさんもどこかで聞いたことがあるのでは?
なにしろ1973年といえば時代はニューエイジ・ムーブメントの真っ只中。この手の話が人々のイマジネーションをかき立て、熱烈歓迎されたのはよくわかります。ええ、よくわかりますとも。実はわたしにもアメリカ人のニューエイジャーの友だちがおりまして、彼女もこういう話が大好きでしたからね……。懐かしいです……。
さてその『植物の秘密の生活』に書かれていたことの中でも、とりわけ読者にアピールしたのが、CIAで嘘発見器の開発に関わったというクリーヴ・バクスターなる人物の研究でした。バクスターは、植物は人間の心を読むことができると主張したのです。バクスターは自分の研究室に置いてあるドラセナ(ごくありふれた観葉植物です)のそばに立ち、そのドラセナが炎に包まれる様子を心の中で想像してみたところ、なんと、ドラセナにつないだ嘘発見器が反応したというのです。
ちなみに、バクスターはその後も嘘発見器による植物研究を続けました。たとえば、殺人事件を目撃した植物が、六人の被験者の中からズバリ犯人を言い当てたとか(嘘発見器が反応した)、熱湯の中にエビが放り込まれるのを見た植物は、種を超えた憐憫の情に駆られて嘆き悲しむとか……。トムキンス&バードやバクスターらの「実験」はずさんで再現性もないので、世間的にはいまだに彼らの話を信じている人はたくさんいるものの、科学者の間では「トンデモ太鼓判」が押されているのです。
こういう「植物知能」騒動は、科学にとって負の遺産となりました。科学者コミュニティーは、植物にも知能があるのでは? といった問題意識を持つこと自体を避けるようになってしまったんですね。植物にも「感覚」なり「コミニケーション能力」なり「意識」なり「知能」なりがあるのではないか、と考えること自体が、タブー視されるようになってしまったのです。まぁ、それも無理はないでしょう。しかし、なんであれタブーは、科学研究を進める上で障害ともなります。
たとえば1980年代には「植物コミニケーション」つまり「植物は互いにコミニケーションを取り合っているのではないか?」という問題意識をもって研究する人たちが出てきたのですが、植物の活動に対して「コミニケーション」などという言葉を使うなんてとんでもないことだとして、さんざっぱら批判されたそうです。しかし今日では、「植物コミニケーション」は広く受け入れられています。
植物コミュニケーションというジャンルの中でも、近年とくに成果が上がっているのが「植物シグナリング」(植物が、仲間の植物や動物に信号を送ること)という領域です。たとえば、植物が昆虫にたかられて葉っぱをむしゃむしゃ食べられると、葉っぱからある種の化学物質が放出される。するとその物質に反応して、他の葉っぱが防御物質を作り始めるんだそうです。それどころか、昆虫の素性までもわかるような物質を空気中に放出することもあり、その物質に反応して、その昆虫の天敵が飛来するケースさえあるというのです。昆虫だけにとどまらず、たとえばアンテロープ(角の美しいウシ科の動物)にむしゃむしゃ食べられたアカシアは、アンテロープの消化を阻害する物質を作るそうですし、食害が進むとアンテロープを殺せるほどの毒物を作ることもあるらしいです。
つまり、植物がコミニケーションのために使う「語彙」は、化学物質なのですね。今ではその語彙数が、なんと三千種類ほどに上るということがわかっているそうです。三千といえば、大学入試に必要とされる英単語数と同じオーダーですよね! たしかに、化学物質を作るという点では、植物は人間よりもずっと先を行ってましたものね。殺虫剤となるアルカロイドや、ペニシリンを始めとする抗生物質、麻薬となる物質など、植物はさまざまな化学物質を自ら作り出して活用しています。人間も、植物が作るこうした物質に、大いに助けられたり、中毒にさせられたりと、浅からぬ因縁があるわけでございます……。
こうして「植物コミニケーション」は、今では真っ当な研究分野として認められていますが、それに代わってこのところ熱い論争が起こっているのが、「植物知能」です。これについても研究の手法やデータそのもの問題なのではなく、むしろ植物に対して「知能」なり「学習」なり「記憶」なりといった言葉を使うことは、はたして妥当なのか? こういった言葉は動物にのみとっておかれるべきではないのか? という、いわば言葉の定義が争点になっているらしいのです。
植物の活動に「知能」なんていう言葉を使うべきではないと考える人たちは、「動物は認知し、学習する。それに対して植物は順応する(長期的には適応する)だけである」と考えます。そして知能を持つためには、ニューロン(あるいは脳)が必要である、というのです。標語的に言えば、「ニューロン(脳)なくして知能なし」ですね。
それに対して、植物もまた「知能」をもつと考えた方が生産的だと考える人たちは、「ニューロン(脳)なくして知性なし」というのは、あからさまに「ニューロン(脳)中心主義」だよね?と考えます。
ひょっとしたらわれわれは、そうと意識しないままに、植物を見下げているのでは? 植物とは、過去のどこかの時点で進化の袋小路にはまり込んでしまった、「遅れた生き物」であり、「下等な生き物」だと思っているのでは? しかしそんな考えは間違いで、植物たちは動物とはまったく別の戦略をとりながら、みごとな進化を遂げているじゃないか、というのが「植物が知能もってもべつにいいじゃん?」派の生物学者たちの考えです。
たしかに、今日ニューロンレベルで脳を研究している人たちのなかには、意識なり知能なりは、「脳」なり「ニューロン」なりの専売特許というよりはむしろ、「複雑系の創発的現象」だと捉えている人たちもいるように見えます。ニューロンのシステムは確かに複雑ですが、ともかくも複雑な系にすぎない。ほかにも複雑な系があってもいいのでは? そういうシステムが、記憶なり意識なり知能なりを生んでもいいのでは? なぜ、脳やニューロンだけが特別だといえるの? と。
むしろ植物と動物を同じ土俵にあげてみてはじめて、脳にできること、できないことが見えてくるのかもしれません。
そう考える研究者の中には、植物たちはわれわれと地球を共有するエイリアンのようなもの(ただし、SFに出てくるエイリアンとは異なり、われわれを殲滅させようなどとは考えないありがたいエイリアン)なのかも、という人もいます。わたしたちはこのエイリアンたちのことを、まだほとんど知らない。けれども彼らから学べることはたくさんあるはずだ、と。
植物的戦略をテクノロジーに応用しようという試みは、すでに始まっています。ポーランが紹介していたのは次の三つ。
■植物方式コンピューティング
膨大な環境変数を数千のルート・プロセッシングで処理する分散コンピューティング。
■プラントイド(植物型ロボット)
植物原理にもとづいてデザインされたロボットのこと。これまでロボットは、ヒューマノイド(人間型)とかインセクトイド(昆虫型:攻殻機動隊の「タチコマ」も昆虫型ですね!)など、動物にインスパイアされて作られてきましたが、土壌探査などで有望視されているのが「ロボット根(robotic root)」。欧州連合の「未来技術プログラム」との共同で進められているロボット根研究では、伸びて固まる素材を使って、土壌中にゆっくりと入り込み、環境条件を感知して、進路変更していくとシステムを開発中。惑星探査などでは、単に土をすくって持ち帰ってくる方法よりも、格段に優れた探査方法となってくれそうです。
■地下植物ネットワーク
森の木々が作っている菌根ネットワークでは、情報だけでなく物資までも交換しているということが、放射性同位体を使った研究から明らかになっているそうです。ネットワークのハブとなる古い木(母なる木っていうやつですかね)が、条件の悪いところに生えてしまった幼木に、優先的に栄養を回すなどの采配をしていることや、最大で四十七本の木がネットワークにつながっているケースがあることもわかっているそうです。また別の研究によれば、一年間を通じて、モミの木とカリフォルニア月桂樹はが余剰糖質をやりくりしあって、お互いにより良い環境を作っていることもわかってきたとか。
ポーランの記事は、考え方の枠組みという点でも、具体的な新知識という点でも、植物科学の新展開を感じさせるたいへん興味深いものでした。
ところで、『ニューヨーカー』には「読者からのお便り」コーナーがあります。「読者」とはいっても、その分野の第一人者だったり関係者だったりするので、ホットな記事が掲載された後にはどんなお便りが寄せられるのかなーと、楽しみにチェックしています。
マイケル・ポーランの記事が掲載された二週間後の『ニューヨーカー』には、二人の読者からの「お便り」が紹介されました。
一人は、マサチューセッツ大学の生物学教授トビアス・バスキン。バスキンは「神経&筋肉なければ知能なし」という立場から、ポーランの記事のスタンスをきっぱりと批判していました。
もう一人は、スミソニアン学術協会の国立自然史博物館のマーク・モフェット(モフェットは「昆虫学のインディ・ジョーンズ」の異名をとるちょっとした有名人で、師匠はE・O・ウィルソンらしいです)。モフェットはポーランの記事を補足する立場から、植物は必ずしも着生して生きるわけではなく(ポーランは植物の生活様式の特徴は、動けないことだと述べていたため)、とくに熱帯地方では、いわゆる「支持根」を竹馬のように使って移動するイチジクの仲間や、たかだか1メートルかそこらの体長しかないのに、そのサイズからは考えられないほど長距離を移動するサトイモ科の植物がいることなどを紹介していました。そういう植物では、ポーランの言う「モジュール」型の身体構造を生かして(身体の九割方を捨てても再生できる)、日陰に入っている部分を切り捨て、太陽や養分を求めて積極的に移動する戦略をとっているわけです。
かつて人間は、人間以外の動物に「知能」を認めることに抵抗してきました。そして今、それを植物に認めるかどうかは争点に上ってきているように見えます。
ともあれ、「知能」をどう定義するにせよ、植物に関して新しい知識が着々と得られはじめているのはたしかです。近い将来、わたしたちの植物観は、大きく塗り変えられることでしょう。そしてそれに対応して、人間の自画像もまた大きな変革を被ることになりそうです。
楽しみですね!
さて、ポーラン新著、”Cooked”
料理って、自然の博物誌と人間の文化史なんだよね、そして自然を変え、人間自身をも変えるプロセスなんだよね……という、壮大な(しかしいわれてみれば当然の!)ビジョンのもとに書かれた浩瀚な本。料理人は自然(nature)と文化(culture)のあいだに立つ者、というポーランの言葉は魅力的です!
もうひとつ、植物には関係がないのですが、ポーランの記事にも出てきた「嘘発見器」に関する非常に興味深い本をひとつご紹介したいと思います。1920年代に開発されてアメリカのオブセッションとなった嘘発見器(本のタイトルは「星条旗よ永遠なれ」にかけてますね……)。
「拷問などにたよらず、科学的に真実を見極めることができたら……」という良き願いから生まれた装置がモンスターとなっていく過程が描かれていて、引き込まれます。「嘘」概念や「裁判」概念の歴史にもふれられた、ケン・オールダーの力作です。