地味といえば地味な学術書である。はっきり言って4千円は高いし、ほとんどの人は買おうと思わないだろう。しかし、この本のあらすじは知っておいて損はない。江戸時代の知識階級のレベルがいかに高かったがよくわかる。
天然痘は感染力が強く、致死率も高いおそるべき伝染病である。いや、その撲滅が人類によって成し遂げられた唯一の疾患なのだから、『であった』が正しいのかもしれない。17世紀、すでに中国では、弱毒化した天然痘を人為的に接種する『人痘』がおこなわれていた。ヒトに感染する天然痘ウイルスを用いるのであるから、当然、死ぬこともあった。
天然痘で死ぬ子供の方が人痘で死ぬ子供より多い、そして、自然発症よりもコントロールが容易である、ということから人痘がひろまっていったらしい。もちろん、日本でも天然痘が猛威をふるうことがあった。しかし、伝わりはしたものの、中国式人痘が広まることはなかった。命というものについての考え方が違うせいなのだろうか。
ヨーロッパでは、その頃、中国式の人痘とは独立にできたトルコ式の人痘がひろまっていた。だから、1798年に報告されたジェンナーの方法が人痘よりも安全だとわかった時点で、牛痘ウイルスを用いた種痘は爆発的に広まった。
牛痘というのだから、てっきり、ウシに接種しながら維持するものばかりだと思っていた。違うのである。なんと、確実に運搬するには、ヒトからヒトへとウイルスを植え次いでいく必要があった。そのために、アメリカ大陸や東南アジアといった遠いところへは、天然痘に罹患歴のない子供を何人も船に乗せて順々に接種していったという。もちろん、貧しい家の子供たちをかき集めてである。いまなら、とても人道的に許されることではない。
ジェンナーの種痘についての情報が日本に伝えられたのは、発表の5年後であった。当時の交通や鎖国していた状況などを考えると、かなりのスピードでの伝来であるといって良いだろう。それを伝えたのは、オランダ商館長になるヘンドリック・ドゥーフであった。
ドゥーフ、またの呼び名をズーフ、といえば、『福翁自伝』や『花神』といった適塾関係の本を読まれた方にはピンとくるだろう。適塾に一冊しかなかったので、塾生がとりあって勉強したという蘭語辞典・ズーフハルマに名を残すズーフである。
情報は伝わったが、オランダからの牛痘苗はなかなか届かなかった。いや、何度も届けられようとしたのであるが、ウイルスが失活していたのである。鎖国中の日本へは、子供の連続接種で運ぶことなどできなかったのだから、いたしかたないことだ。そしてようやく、情報伝達から半世紀近くがたった1849年、オランダ領であった東南アジアのバダビアから長崎へと牛痘苗が伝来した。そして瞬く間に、一説によると半年以内に、日本全土へと広がっていった。猛烈なスピードだ。
もしかして半世紀前に種痘が伝来していたら、これほど順調に日本中に広がることはなかったかもしれない。これだけ急速に広まったのは、情報伝来から半世紀、蘭方医たちの間で、牛痘は安全な天然痘予防法である、という情報が確固たる知識として共有されていたことがある。
この間に、蘭方医たちの藩を超えたネットワーク、とでもいうべきインフラ整備がなされていたことが大きかった。旧来の漢方医学は、代々、家に伝えられるものであった。それに対して、蘭方医は新興勢力だけにそうではなく、進取の気鋭に富んだ優秀な若者、それも下級武士や町人という階級の若者、が飛び込む世界であったのだ。それらの蘭方医たちが、医学という学問を学び人々を助けるという目的の下、強固なネットワークを形成していた。
長崎のすぐ近く、佐賀の藩主・鍋島直正が、非常に早い段階において、嫡男である我が子に種痘をおこなったのも、種痘の広がりに拍車をかけた。それによって、種痘にお墨付きが与えられたような形になり、九州諸藩のみならず、江戸へ京都へと痘苗が送られていったのである。
おもしろいのは、幕府が、ほぼなにもしなかったことである。江戸では、よく知られているように、お玉ヶ池種痘所が中心になって種痘がおこなわれるようになる。しかし、幕府はこの種痘所の設置に許可を出しはしたものの、経費はまったく負担していない。この種痘所は、江戸にあったほぼすべての蘭学塾からの八十三名が発起人(出資者)として作られたものなのだ。
幕府が音頭を取って進めていたら、これほどスムーズにことは運ばなかったのではないかと考察されている。歴史に『もし』はないけれど、幕末間近、体制は硬直して官僚主義(というのか、あるいはお武家主義とでもいうのか…)もまかり通っていただろうから、さもありなんというところである。いまの厚生労働省も似たところがあるような気がしないでもないし。
医学という科学を学び、多くの民衆を救うことに生きがいを感じた蘭方医たち。尊敬を集めていたからこそ、予防のため、子どもの皮膚を傷つける接種を民衆はうけいれたにちがいない。なんとやり甲斐のある仕事だったのだろうか。いまの医師たちは、この話を読むと、良き時代であったとうらやましく思うに違いない。
人痘、ジェンナー、蘭学の広まり、ドゥーフ、当時の日蘭関係、出島、シーボルト、緒方洪庵、蘭方医の出自、手塚治虫の先祖である手塚良庵、松本良順、長与専斎、などなど。いろいろな人物や出来事についての小ネタが満載だ。4000円と、HONZいうところの『ブルジョア本』ではあるけれど、歴史好き、医学好きには十分に元をとれる一冊である。
緒方洪庵の適塾に学んだ福沢諭吉。その時代がよくわかる。
これも適塾に学んだ大村益次郎の話。適塾の描写がいい。
最後の奥医師にして、最初の蘭方御殿医、松本良順。おなじ主人公で司馬遼太郎の『胡蝶の夢』がありますが、『暁の旅人』に軍配があがるでしょう。
手塚治虫が、適塾で学んだ祖先、手塚良庵を描いたマンガ。ちなみに、手塚良庵も種痘伝来時に尽力した一人である。