ただならぬタイトルの裏側には、ただならぬ闇が潜んでいた。地を這うような調査によって、ドミノ倒しのように明かされていく衝撃の事実。報道という武器を駆使して次々に繰り出される手技。それでも事態は動かない。「真実」への道のりは、ここまで遠いものか。そして「当たり前」のことを当たり前のように行うのは、ここまで難しいものか。
北関東連続幼女殺人事件は、栃木県足利市、群馬県太田市という隣接する2市で、5人の少女が姿を消した事件である。犯行は半径10キロという限定された地域で複数年おきに行われており、誘拐現場の大半がパチンコ店、そしてほとんどの遺体が河川敷で発見されるなど共通項は多いものの、犯人は未だに逮捕されていない。
事件を時系列に並べると、以下のようになる。
1979年 栃木県足利市 福島万弥ちゃん 5歳 殺害
1984年 栃木県足利市 長谷部有美ちゃん 5歳 殺害
1987年 群馬県尾島町 大沢朋子ちゃん 8歳 殺害
1990年 栃木県足利市 松田真実ちゃん 4歳 殺害
1996年 群馬県太田市 横山ゆかりちゃん 4歳 行方不明
だが、この事件が「連続幼女殺人事件」としてその名を知られることになったのは、比較的最近のことだ。
そのきっかけを辿っていくと、1990年に松田真実ちゃんが殺害された「足利事件」と呼ばれる一件に行き着く。事件当時、警察は菅家利和さんという男性を「誘拐殺人犯」として逮捕し、検察は起訴。最高裁は無期懲役の判決を下し、マスコミも大きく報じていた。
しかし2009年、菅家さんは冤罪が確定し釈放される。この事件を2007年の段階から独自の視点で検証、再審から無罪へとキャンペーン報道を張ったのが、本書の著者、日本テレビ記者の清水潔氏である。
本書は、この菅家さんの冤罪を立証するに至るまでのプロセスを通して、国家の病巣とも言うべき闇を照らし出した実に挑戦的な一冊である。何より驚くのは、冤罪というものの被害の大きさだ。一つのボタンの掛け違いが、あまりにもたくさんの人を巻き込んでいく。
加害者というレッテルを貼られた菅家さんも被害者なら、殺された幼児達も、もちろん被害者。そして長年思い描いた犯人像に気持ちの整理をつけ終えた被害者の家族だって、新たな被害者なのである。
冤罪が明らかになることによって、5つの事件は全て未解決事件へと振り出しに戻った。さらに同一犯による犯行の可能性も、急速に浮上してくる。それはこの凶悪な殺人事件の脅威が、現在進行形であることを意味した。私達が住んでいるかもしれない普通の街で、刑に服することもない「殺人犯」と、日々すれ違っているのかもしれないのである。
そんな悲劇を生み出した不当な捜査と杜撰な証拠。いやこれが単に「不当」で「杜撰」であるだけなら、まだ良かったのかもしれない。恐ろしいことに、菅家さんはあるシナリオに沿って推し進められた警察組織の論理によって、17年半もの間、刑務所に閉じ込められていたのだ。国家は、そうと決めれば一人の罪もない人間の自由を奪い、時間を奪うことができる。
菅家さんが、一体どのような状況で自供することになったのか。それを突き止めるまでの調査報道とは、実に泥臭いものである。渡良瀬川の河川敷に何度も通い、中州の砂を踏み、アシをかき分けて歩く。正確な検証を行うため測量を行い、菅家さんの自供に沿って再現実験を行う。同じ自転車、同じ重量配分、同じ場所を走って、止めたストップウォッチから所要時間を割り出す。現場でしか出来ない思考を積み重ねることによって見えてきたのは、因果を踏まずに作成された書類には、現場感覚が決定的に欠如しているということであった。
本来、報道のプロフェッショナルであるということは、組織的な恩恵に預かれるということを意味する。記者の場合であれば、記者クラブを介して官から情報を得ることにより、「担保」のある報道が効率的に行えるということだ。通常のケースなら、それで良いのかもしれない。だが、「担保」に不都合があった場合、マスコミはそれを検証しうるのか?著者の行動原理は、そんな疑問に端を発する。
著者は、プロフェッショナルとしての特権に背を向け、その気になればアマチュアでも実践できるような手法にまで手を広げていく。取材対象との距離が近く、感情が入りこむ報道には、中立的であるのかという疑問符もつくだろう。だが、そもそも報道とは一体何のためにあるのか。世の中を動かすという大義のために著者が決断したことは、組織人として組織の「枠」を逸脱するということであった。一個人における数々の矛盾の止揚、その先にしか「真実」への道は開かれていなかった。
何しろ相手は、警察という組織である。自身が過去に担当した「桶川事件」の経験から、「警察は都合の悪いことは隠す」という体質をイヤというほど分かっていた。ならば、この事件における警察にとって都合の悪いこととは、何だったのか?それは、冤罪を決定づけた「DNA型鑑定」という物証であった。当時、科学警察研究所が鳴り物入りで始めた「DNA型鑑定」という手法。この当時の鑑定は「血液型」と同じで「型」分類に過ぎなかったのだが、警察庁は犯人を捕まえられないことへの批判を恐れ、格好の切り札として喧伝した。
メンツをかけての見切り発車であったにも関わらず、マスコミの記事には「DNA鑑定切り札に」「”ミクロの捜査” 1年半」「指紋制度にならぶ捜査革命」の文字が踊る。「警察庁から本部長を送り込み、最新鋭の武器を使って犯人を逮捕した」ーー そんな組織による大きな「物語」が描かれ、同時に「DNA型判定は絶対的に正しい」という「神話」まで完成してしまう。警察が描く大きな「物語」と大きなメディアが安易にくっつくことによって、新たな凶器が生まれる典型であった。
だが、組織が大きな「物語」を描く時、その綻びは必ず個人のもとで表面化する。だから「一番小さな声を聞く」ーー それこそが著者の取材における原理原則であった。この事件の場合、それは4歳で殺害された真実ちゃんの声であり、代弁が出来るのはその親に他ならない。主体と主体が真っ向から向きあい、被害者の親の心を動かすことによって、DNA型鑑定の「誤認疑惑」を裏付ける、重大な事実を目の当たりにする。
この四半世紀も前に実施された言わば「DNA型鑑定キャンペーン」に対し、すかさず著者も報道キャンペーンを大々的に張ることで、矢継ぎ早に対抗していく。所属する日本テレビでの特別番組、霞ヶ関界隈で大きな影響力を持つ雑誌媒体での特集記事。だが25年という月日はあまりにも長い。
さらにDNA型鑑定によって既に死刑になった人間の存在が、事態を余計に複雑にした。タイムラグが生み出す時間のねじれがエアポケットを生み出し、真犯人「ルパンに似た男」は、すっぽりとその中に隠れこんでしまう。そして待てど暮らせど、司法は一向に動く気配がない。
事態に業を煮やした著者が、新たに繰り出した一撃が、本書の刊行であったのだろう。すわなち、情報戦の一環としてのノンフィクション書籍の出版。これはまさに真犯人へ向けた挑戦状なのである。
そしてその挑戦状は、読者に対しても突きつけられている。テレビ・雑誌のような瞬間的な爆発力こそないが、書籍には「書き残す」という武器がある。言論の力を信じる男が読者に問いかける「書き残す」ことの価値。そのメッセージが届いた時、本書をただ「読み応えのある読み物」だけとして消費することは難しい。
著者自身、調査の過程で何度も助けられた「書き残された」資料の数々。たとえ、今回の事件が闇に伏せられたままで終わろうとも、遠い未来の誰かの役に立つのかもしれない。そんな思いで、この闇が二度と起き上がることの無いよう、渾身の力を振り絞って事件の詳細を書き残した。
あらゆる方向へ主体として向き合った男の言葉はよく響く。どのような立場の人が読んでも、まるで自分へ宛てたメッセージのように捉えることが出来るだろう。そして何よりも、本書の最後に書かれた一文から、真犯人はどのようなメッセージを受け取ったのだろうか。
お前がどこのどいつか、残念だが今はまだ書けない。
だが、お前の存在だけはここに書き残しておくから。
いいか、逃げきれるなどと思うなよ。
僕が清水潔氏のことを初めて知ったのは、本書の刊行にまつわる情報からであった。レビューはこちら
本書でも度々触れられている「桶川ストーカー殺人事件」の真相。レビューはこちら
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・『殺人犯はそこにいる』 - 真犯人への挑戦状
(HONZ・内藤 順)
・著者インタビュー『殺人犯はそこにいる』清水潔氏
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