読み応えのある本だ。新書版で上下600ページ近く。それもやさしい本ではない。しかし、『科学を楽しみ、神経系がどのようにして学習し、記憶するかについての驚くべき新発見に興味を持つ一般読者』を想定して書かれたというこの本のもくろみは十分に達成されている。
専門用語がたくさん出てくるので、本屋さんでこの本をぱらぱらっと見たら、それだけで尻込みしてしまうかもしれない。しかし、内容がステップワイズに説明されていくので、最初から読んでいけば、生命科学についての知識がなくとも大丈夫だ。最後まで読めば、記憶について最先端の神経科学が理解でき、おおいなる知的満足感にひたることができる。
記憶の研究は、哲学にはじまり、心理学から生命科学へと移ってきた。しかし、ひとことで『記憶』といっても、何種類もに分けることができる。そのことは、カナダの心理学者ブレンダ・ミルナーによる、ひとりの健忘症患者、世界でいちばん有名な健忘症患者H・Mの研究によってはじめて明確に示された。
9歳の時に負った頭部傷害によって重症のてんかん発作を繰り返すようになったH・Mは、その治療のため、1953年、脳の内惻側頭葉を両側とも摘出する手術をうけた。無事、てんかんは治ったのであるが、2008年に82歳で亡くなるまで、記憶する能力を欠損したままになってしまった。
すべての記憶がなくなったわけではない。少年期の記憶は残っていた。しかし、いますぐのことは記憶できるのだが、つぎになにか出来事がおきると、それまでのことを完全に忘れてしまう。すなわち、刹那的な記憶はあるが、それを長期的な記憶へと変換できなくなってしまったのだ。このことから、記憶には短期記憶と長期記憶があって、それぞれに必要な脳の部位は異なっていることが明らかになった。
さらに驚くべきことは、H・Mにも長期に『記憶』できる能力が残っていた、ということであった。しかし、それは、我々が普通の意味で使うような『記憶』ではない。このことがわかったのは、鏡に映った☆形の輪郭をなぞる、という単純な作業によってであった。毎日その作業を繰り返すことにより、その効率は日々向上していったのだ。もちろん、H・Mはその作業を毎日しているということはまったく覚えていなかったにもかかわらず、である。
我々が日々意識している『記憶』とは違う種類の記憶、いわば意識にのぼってこない記憶がある、ということが明らかになったのだ。この記憶は、H・Mが失ってしまった『陳述記憶』とは異なった記憶、『非陳述記憶』として区別されるようになった。自転車の乗り方を例にとると、自転車に乗るにはハンドルを持ってペダルをこいで、とかいうように覚えるのが陳述記憶であって、なにも考えずに自然に乗れるようになるのが非陳述記憶である。
記憶は神経細胞の作り出す回路によって作り出されているという考え、ニューロン学説を最初に唱えたのは、スペインの天才解剖学者ラモン・イ・カハールであった。カハールはシナプスと呼ばれる接触部を通して神経細胞が連絡しあう、ということも含めて、いくつもの重要な仮説を提示した。
ヒトの脳には約一千億個の神経細胞があり、それぞれが他の神経細胞と約千個のシナプス結合をつくっているとされている。すなわち、千億×千で、約10の14乗個ものシナプス結合があるのだ。いきなり、そのような複雑な脳をつかって記憶のメカニズムを研究するのは非常に困難であることは想像に難くない。
そこで用いられたのが、アメフラシという、海に棲むナメクジのような生物であった。アメフラシごときであっても、触れるとエラをひっこめる、という反射反応を呈するのである。それだけでなく、刺激を何回も繰り返すと、訓化という現象によってそのような反応がおきにくくなること、そして、訓化には、短期的なものと長期的なものがあることもわかった。
アメフラシがこのような非陳述記憶において『学習』するのに必要な神経細胞はわずか100個ほどでしかない。この本の著者の一人でもあるエリック・カンデルは、単純な神経システムを持つアメフラシを用いて記憶の分子メカニズムを次々と明らかにしていった。そして、そのメカニズムは、基本的なところで、ほ乳類にいたるまで進化的に保存されていることが明らかになった。
残念ながら、アメフラシには陳述記憶などできはしない。陳述記憶についての動物実験は、サルを用いた研究から始められた。そして、いろいろと工夫した実験方法を取り入れることにより、マウスやラットにも陳述記憶があることがわかった。この展開は大きかった。特定の遺伝子を破壊したマウスを用いることができるようになり、陳述記憶の分子機構がどんどん解明されていったのである。
しかし、高度な記憶となると、やはりヒトを用いて研究しなければならない。かつては、技術的に不可能であったが、最近ではfMRI(機能的磁気共鳴画像法)やPET(陽電子放射断層撮影法)といった最先端のイメージング法を使うことにより、脳のどの領域が、どのような記憶に必要かなど、おもしろいことが次々とわかってきている。
この本を読んだだけで、生命科学のフロンティアである『記憶の科学』がどのように進んできたか、そして、いま、どのような状況にあるのかが手に取るようにわかる。最初に書いたように、簡単に読める本ではない。しかし、時にはすこし難しいめの本を読んで脳細胞に刺激を与えてやるのもいい。人類の叡智が注ぎ込まれた膨大な研究内容を知ることにより、強烈な知的興奮、いや、知的感動すら覚えることができる一冊だ。
カンデルといえばこの教科書。翻訳『カンデル神経科学』が出版間近のようです。