昨年くらいから急速に話題に上ることの多くなってきた「ウェアラブル」というテーマ。概念自体は、アニメやSFの世界を通して昔から見られたものの、グーグル・グラスやスマートウォッチなどの動きを通じて日を追うごとにリアリティを増してきた。
だが本書『ウェアラブルは何を変えるのか』は、リアリティ溢れるウェアラブルの「今」を描いたというよりは、現在表面化してきている出来事を材料に新たな未来像を再構築したと言った方が正しい。ターゲットとしているのは2020年。ウェアラブルがこうなって行くのではないかというヨミと、こうなって欲しいという願望と、こうなるべきだというビジョンが、バランスよく織り交ぜられている。
その未来像を一言で表せば、「ウェアラブルの登場により、コミュニケーションは無意識の領域へと進出し、ヒトとコンピュータは共進化を遂げる」というものである。こう書くとやはり遠い世界の話のような印象を受けるかもしれないが、それを裏打ちする技術動向などがしっかりと解説されており、その未来像にリアリティを与えている。
具体的な動向の一つには、操作系の進化に伴う新しいユーザー体験(UX)の出現が挙げられている。電子化というデバイスの進化とはうらはらに、マンマシンインタフェース(人間と機械の接点)はデバイスと対面・対話する方向に向き合い方が変わったため、「そこに機械があること」を意識せざるを得ないようになってしまったのだという。
そこで注目されるのが、キネクトに代表されるような非接触で、ジェスチャーを使うタイプの操作系。これは「従来の対話型から直感的な身体の延長へ」という操作系の進化を象徴するようなものであり、本書では「同方向・同化型」として区分されている。
デバイスの存在を気にせず、自分の身体の延長であるように感じるようなUX、この操作系の登場が持つ意味は大きい。自分の身体の中に取り込まれるように、完全に同方向・同化されることによって、これまで不可能だった領域における情報の抽象化が可能となるのだ。フィットネス目的のウェアラブルなどもその代表例の一つと言えるだろう。
もう一つの重要な視点が、センサー技術の発達というものである。これを単一デバイスの話ではなく、広く「モノのインターネット」という観点から捉えると、まさに景色が変わる。
ウェアラブルによって私たちの身体も「モノのインターネット」に組み込まれていくと、ネットでつながっているモノ同士が互いに交信し、私たちのコンテキストを解析し、必要な情報や行動を勝手に判断するようになる。これこそまさに環境が知性を持つということであり、「ウェアラブルが、一体何のために存在するのか」ということに対する明確な回答とも言えるだろう。
学習のプロセスが、以下の4つのステージから構成されるというのはよく聞く話である。
1.無意識的無能(知らないし出来ない)
2.意識的無能(知っていても出来ない)
3.意識的有能(考えると出来る)
4.無意識的有能(考えなくても出来る)
現在のネットの状態というのはその操作系の制約ゆえに、「知っていても出来ない」もしくは「知っているからこそ出来ない」という2番の状態に含まれる領域が非常に大きい。この領域がウェアラブルの登場によって4番の「無意識的有能」のステージへ変わるということは、まさにヒトとコンピュータ双方にとっての大きな進化なのである。
インターネットからソーシャルへと世の中が変化した時も、PCからスマホへという変化が起きた時も、最初は小さな変化にしか思えなかった。それはその時の「今」のみを見て判断したから見誤ったわけなのだが、背景となる領域を含めた「明日」をしっかり見据えることで、サービスの捉え方も変わるということをつくづく実感した。本当にコミュニケーションの領域とテクノロジーは不可分な時代になったものだと思う。
本書はコンパクトな分量(後に書籍化されるものの半分だそうです。)ながら現在と未来の橋渡しをしてくれるような役割を果たしており、その未来像は十分にワクワクさせるようなものであった。次の東京オリンピックで注目される「おもてなし」は、ひょっとするとテクノロジーによって実現されるものかもしれない。
フィットネス系ウェアラブルのフロンティア。
本書の元記事のいくつかが掲載されていた佐々木氏の有料メルマガ。近々、オンラインコミュニティへと進化するそうで、これまた楽しみ。