今年の春、車を買い替えた。11年乗った赤の4WDのアウディをとっても気に入っていたのだけど、さすがに調子が悪くなってきたので、車検を機に新しくすることにしたのだ。
この車には思い出がいっぱい詰まっている。最初の5年ほどは、北方謙三氏の秘書をしていたので、彼の別荘に行ったりカンヅメになっているホテルに物を届けたり、病気になった北方ボスの愛犬を医者に連れて行ったり、と大活躍をしてくれた。
明日は引き取りに来るという日。念入りに掃除をしていた。足元のシートを引っぺがし、椅子の下も後部の荷物置き場もぜんぶ空にして掃除機をかけた。そのゴミを捨てようとすると、そこにはびっくりするほどの量の白と黒の毛が入っていた。くるくると丸まった毛の大きさは、小さなおにぎり一個分といったところだろうか。
「富士丸だな」
夫がぽつんとつぶやいた。その時はもう、私の左目からは涙が溢れそうになっていた。
この車に富士丸が乗ったのは何回あったのだろう?2回か3回、そんなものだ。でもバイバイと帰った後、車のシートは、いつも物凄いことになっていて、掃除機やコロコロが大活躍したものだ。旅行に行くのが大好きで、車の中ではニカニカ笑っていた富士丸の顔が頭をよぎる。
「まだこんなにあったんだね」と、昔、大事にしていた宝物を見つけたような気持ちになる。そしてもうひとつ思う。富士丸がいて、一緒に遊んでくれたことは夢じゃなかったんだ。
2009年10月1日の夜のことは、何度も何度も思いだす。それは秋風を感じたときや、穴澤さんと別れ際に入ったビアホールの近くを歩いているとき、大型犬の後姿を見た瞬間や納豆ソバを食べたときに不意にやってくる。あの犬は納豆が好きだったっけ。
そう、あの当時、穴澤賢はがむしゃらになっていた。どちらかといえば、いつも投げやりでやる気を見せない人だと思っていたのに、富士丸と山で暮らすんだ、と決めてからどこかのスイッチが入ったようだった。そんな気にさせたのも、少しは私に責任があるかもしれない。
狭い1DKで額をくっつけあうように暮らしていたひとりと一匹を、友人が住む軽井沢に連れて行ったのはいつだったか。ボルゾイというロシアの貴族のような大型犬を飼っている友人から誘われて、泊りがけで遊びにいったときのことだ。渓流釣りが好きなくせに下手くそなとうちゃんをよそに、富士丸はものすごく楽しそうだった。パオラという名のボルゾイとも、なんとなく仲良くなり、近くに住んでいる小説家の馳星周さんの愛犬、バーニーズ・マウンテンドッグのワルテルとソーラも呼んで、一緒にバーベキューをしていたとき「こういう環境で富士丸と暮らせたらいいなあ」と言いだした。
それは、最初はほんの夢物語だったはずだ。しかし、本当に幸せそうに散歩してくつろぐ富士丸の姿を見ていると、実現しないわけにはいかなくなってきたようだ。実際、馳さんは犬たちが暮らしやすいようにと東京から軽井沢に引っ越してきたのだから、勧めないわけがない。
富士丸の人気は絶頂だった。ブログのランキングは常に一位で、イベントにもひっぱりだこ。富士丸会いたさに遠方からもファンがやってきて、驚かされることも多かったと聞く。富士丸がらみが多かったとはいえ、穴澤さんの仕事も途切れることなく入り、少し前の根なし草のフリーターのような生活とは全く違っていた。
私は単に富士丸と遊びたいという、ただのファンだったが、北方謙三ボスの別荘に連れて行き、凄味のあるボスとの2ショットを撮って楽しんでいただけだった。言ってしまえば、富士丸を通しての単なる飲み友達に過ぎなかったので、家をつくるうんぬんの経過はよく知らずにいた。
あるとき、穴澤さんから連絡が来た。富士丸と一緒に住む家を山に建てることになった、いろいろなプロジェクトが進んでいる、ついては、身元をきちんとしたいのでどこかの団体に入れないか、知恵を貸してくれという相談であった。
彼はすでにそのとき、富士丸に関する本を何冊も本を出した後だったので、物書きが入ることのできる公益社団法人・日本文藝家協会へ入会する手続き方法を教えてあげた。無事に入会が認められたのが2009年の夏。穴澤賢は立派な文筆家として認められたのだ。
条件が整い、あとは家を建てる契約書に判子をつくだけ、という前の日、富士丸が死んだ。
本の中にも書かれているように、その日、私はある出版社のパーティに穴澤さんを連れ出した。文藝家協会入会に力を貸してくださった方へのお礼と、今後、もっと仕事をできるように、いわゆる顔を売りに行ったのだ、
6時半に待ち合わせ、パーティが終り、その後知り合いの作家と近くのビアホールでちょっと飲んで、別れたのは9時半ぐらいだっただろう。すべてが上手くいっていた。自宅に帰るまで私も上機嫌で、鼻歌を歌っていたかもしれない。
自宅にもうすぐ帰りつく、という時、携帯が鳴った。相手が穴澤さんだと確認してから「どうしたの?」と出ると「富士丸が死んでます」とい言うではないか。何度も聞き返すが「わかりませんが、死んでるんです」と繰り返すだけだ。私はその場にへたり込んでしまい、しばらく動けない。気が付くと電話は切れていた。
すぐに大門さんや野々山さんに連絡を入れるが留守電になってしまう。「どうしよう、どうしよう」とおろおろしていたら、夫が帰宅した。事情を話すと、すぐに行こうとタクシーを拾い彼の家に駆け付けた。狭い家の中はすでにたくさんの人で溢れかえっていた。泣いている人がたくさんいる。穴澤さんは泣いてなかったように記憶している。私と夫は横たわっている富士丸に触り、現実だと知って呆然とした。誰もがどうしていいかわからない。
真夜中にも拘らず人はどんどん増えていく。どうしようもない、と私たちは帰宅した。顔を見た事がある何人かに名刺を渡し、何かあったら連絡をしてくれと頼んだことは覚えている。
その後の穴澤さんの体たらくは本書に書かれたとおりである。いや、正直に言えばこんなもんじゃなかった。一番ひどい時は、彼の友だちやプロジェクトに関わる人たちが常に付いていてくれたのでよかったが、数日経つと仕事関係に迷惑が出始めた。ブログの更新がされないので、ファンの人たちも心配している。結局、私たちが出しゃばったのは、中で一番年上であり、多少の経験値があったからに過ぎない。
富士丸と穴澤さんの暮らしは、まるで繭の中でお互いを温めあっているようだった。どちらにとってもかけがえのない存在で、居なくなってしまったら生きていくことさえ難しい。そういう存在だった。だから富士丸が病気になることを恐れて出来る限りの検査をしていたし、もし、自分が死んだら誰に富士丸を預けるか、まで決めていたほどだ。しかし、こんな突然の別れは誰も考えてはいなかった。というか、こんなことが現実に起こるのか、と、ただひたすら驚いていた。
本人は乗り気でなかったが、何とか説得してお別れの会を開いたとき、どれだけの人が来てくださるかなんて、まったく想像できなかった。意外にも穴澤さんが一番冷静で、お礼のあいさつのために発注したハガキの数と参列者の数がほぼ同じくらい。日々、ブログで読者と接しているので、なんとなくわかったのだろう。井の頭公園で行われたお別れ会は、翌日の新聞に載るくらい話題になった。穴澤さんの気持ちも、多分ここで一区切りついたのだと思う。
不安定なときは続いていたが、もう自暴自棄になるようなことはなくなり、一緒に混乱していた私の生活も普通に戻った。しばらく経ったとき、野々山さんや大門さんとこんな話をした。
もし、富士丸が死ぬのが1日遅かったら、彼は莫大な借金を一人で抱え、この先何年も苦しんだだろう。もし1か月遅かったら、新しい家の工事は始まっていて、その後始末も考えなくてはいけなかっただろう。半年遅かったら、近くにすぐ来てくれる友人もおらず、途方に暮れて自ら命を絶っていたかもしれない。大好きなとうちゃんの苦しみを最小限にするため、まるで図ったかのように、たった5時間ほど家を空けたあの瞬間に、富士丸は旅立ったのではないだろうか。すみませんけど、東さん、後を頼みます、と言われているような気がするんだけど、というと、ふたりとも「そうかもね」と答えてくれた。
「時間は薬」とはよく言ったものだと思う。富士丸がいないということに穴澤さんは少しずつ慣れていった。忘れたわけではないことは、いまだに“ふじまる”と言葉にすることはなく、会話の中で必要が生じると“あのひと”というのだ。“あのひと”はきっと天国で苦笑いしているだろうと、話を合わせながら思っている。
そうそう、最後に穴澤さんに話していないことがあった。富士丸の葬儀の日、最後の姿もまともに見られず、お別れの挨拶もろくにできないほど泥酔していた穴澤さんを見るのが辛くて、お寺の中をひとりで散歩していたら、白と黒のブチの猫を見かけた。その猫に誘われるように奥に進むと、桜が満開になっていた。驚いて参列者のひとりに声をかけ、もう一度見に行き「こんなことをするんですね、富士丸は」と話したのだ。桜満開の春先、鼻の上に桜の花びらを付けたまま、楽しげに散歩をする富士丸の姿を覚えている人も多いだろう。不思議なこともあるものだなあ、と後で調べたら秋に咲く十月桜という種類らしい。荼毘に付される直前になって、雨が上がり太陽が顔を出した。まさに富士丸らしいフィナーレだったのだ。
最後に読者が知りたいだろうな、ということをひとつだけ書いて筆をおく。穴澤さんが選んだ女性は、ちょっと年下でいつもニコニコ笑っているような、傍若無人に振舞う夫と大吉をおおらかに包み込んでくれる人だ。顔立ちは、富士丸より大吉に似ているかもしれない。
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すべての始まりはこの一冊から。
写真集まで出たんです!