一口に本好きと言っても、大きく分けると二つのタイプが存在する。それは本の中身にしか興味がないか、それとも外側にも興味を持つかということである。僕などは本好きを自称していても典型的な前者のタイプなので、フェティッシュに外側のことを熱く語られると、敵わんなという思いを常に抱いてしまう。
後者のタイプの際たるものが、稀覯(きこう)本と呼ばれるコレクターの世界であるだろう。その歴史は古く、17世紀のイギリスにまで遡ることが出来る。それ以降この世界は、「希少性」「重要性」「本の状態」という3つの組み合わせを基準とし、数多くの愛書狂によって支えられてきた。
1930年代のアメリカでは、植物学の教授が大量の本を買い付けたあげくその重さが90トンにも及び、自宅建物の最大荷重をオーバーしてしまったという記録が残されているという。また1830年代のスペインにおいては、稀覯本を巡る殺人事件も起きている。殺人犯は逮捕された後、こう言い放った。「人は皆、遅かれ早かれ死んでいく。だが良書は大切に保存されなくてはならない。」
本書の主人公も、その系譜に名を連ねるであろう人物だ。1999年末から2003年初頭にかけてアメリカ中の古書店からおよそ10万ドルの本を盗んだと推測されるジョン・ギルキー。その犯行は一度のみならず複数回に及んでおり、古書店と刑務所の行ったり来たりを繰り返す。本への情熱は人生を台無しにするほど激しいが、同時に人生に明確な形と目標をも与えている。まさに本によってスクラップ&ビルドされた人生なのだ。
一方、そんなギルキーを迎え撃つのは、古書店主のケン・サンダースという人物。「ブックコップ(本の警察官)」「ビブリオディック(古書探偵)」の異名を持つサンダースは、ソルトレイクシティで古書店を経営するかたわら、探偵の真似事のようなこともしていた。そんな泥棒と探偵が繰り広げる手に汗握るデッドヒート。小説ではよく見かけるような構図を用いながらも、本書は純然たるノンフィクションである。
古書の売り手とコレクターの間には、衝突と融合がある。所詮、両者は同じ穴の狢。本を手に入れることに関しては共に情熱的であり、かつ意欲的だ。そして売り手が本泥棒に敵意を抱くのもまた、当然なことと言えるだろう。だが一方で泥棒の側も、世界の文明の一部が古書店によって独占されていると思い込み、敵意を抱いているというから話は厄介だ。
その気持を半分くらいは理解できるのだが、残りの半分くらいを全く理解出来ない。本書に登場する3人の人物は、お互いにそのようなすれ違いの感情を抱きながら物語が進展していく。それは本を売る者、求める者、書く者といった三者が生み出す奇妙なトライアングルだ。
前述の二人が愛書狂なら、そのやり取りを描き出す著者は愛書狂マニアと言えるだろう。稀覯本の世界に魅せられながらも、ギルキーの内面のダークサイドを執拗に追求していく。愛情はどこまで行き過ぎれば、犯罪になるのか?そしてなぜ彼は、最後の一線を越えて、本の崇拝者から本泥棒に転落してしまうのか?こうして著者は、取材対象としてのギルキーにのめり込んでいく。
取材の過程を通じて、古書の魅力が存分に語られていくのも本書の特徴だ。その一面は、人の五感に訴えるという点にある。分厚いギザギザのページの感触、活字のすっきりした美しさ、リネンやピッグスキンがぴしっと貼られた表紙の感触、そして紙の匂い…
だが最もマニアを魅了するのは、目には見えない不可視な部分である。本とは物語の入れ物であり、物体としての本は所有者の歴史の産物、記憶の容器でもある。形を持っているからこそ生まれる「所有」という概念が、物体としての本に文脈のアーカイブを付与する。本をプレゼントしてくれた人、本を読んだ場所、そのときの年齢。要はコレクションという行為を通して、さらに大きな物語が生み出されるのだ。
ギルキーは稀覯本のコレクションを所有することが自分のアイデンティティの究極の表現であると信じていた。そして、そのコレクションを一目でも見れば、人はそれを蒐集した彼を賞賛するだろうとも。それゆえに、コレクションを手に入れるためならどんな手段も公平かつ正しいと信じ切っていたのだ。
著者はギルキーのことを理解すればするほど、自分が共犯者になったかのような観念にも苛まれていく。だが本書の執筆のプロセスを通して、稀覯本に取り憑かれた男が、自ら稀覯本のコンテンツとなることを理解し、次第に自身との折り合いをつけていく様からは目が離せない。
どこまでも親密で複雑な、そして時には危険な蒐集家と古書の関係。マニアックな話はマニアの間だけで閉じてくれれば良いものを、ご丁寧なことに本書は本の外側に広がる豊潤な世界を、魅力たっぷりに内側に収めてくる。「読まない本」としての楽しみ方も伝えてくれる、まさに禁断の一冊だ。