2011年7月26日、震災以降休止していた築地市場におけるマグロの競り見学会が再開された。震災前140名であった予約枠は120名に縮小されているが、再開初日の参加者は予約枠の半数程度の70名に留まっている。日本政府観光局の推計によると、本年6月の訪日外客数(外国人旅行者数)は昨年同月比で36.0%も減少しているので、この辺りの影響が大きいのかもしれない。観光客の減少はたしかに気になるが、見学されるマグロの減少もかなり深刻だ。本書はマグロの減少を食い止めるべく、マグロの“完全”養殖に挑んだ近畿大学水産研究所(近大水研)の30年以上に及ぶ執念の記録である。
それにしても日本人はマグロが本当に好きなようだ。本書によると、世界の年間マグロ漁獲量はおよそ175万トンであるのに対し、日本の消費量はおよそ50万トン以上。日本人だけで世界のマグロの1/4以上を消費していることになる。メバチ、キハダ、ビンナガなど様々にいるマグロの中でも希少なクロマグロに至っては約8割が日本人によって消費されているというから驚きだ。「海のダイヤ」とも呼ばれるとびきり高価なこのクロマグロ、2009年には世界保護基金(WWF)から資源枯渇が警告されており、2010年のワシントン条約15回締約国際会議では商業用の輸出入全面禁止こそ回避されたものの、漁獲制限は年々厳しさを増している。
マグロの規制を巡る争いは近年急に浮上してきたものではなく、1992年の同会議ではスウェーデンによって国際取引の禁止案が提出されている。日本としても当然この問題に無関心だったわけではない。1960年代における日本のマグロ漁獲高激減や経済水域200カイリの導入などによって危機感は高まっており、1970年には持続的な漁業のあり方を目指した水産庁が世界に先駆けて「有用魚類大規模養殖実験事業」を開始している。この事業の1つにマグロの完全養殖を目指した「マグロ類養殖技術開発企業化試験」プロジェクトがあり、著者が所属する近大水研にも白羽の矢が立ったのだ。
完全養殖とは天然資源から捕獲した幼魚を育成して産卵させ、その稚魚をまた育成して産卵させるサイクルのことを指しているのだが、「養殖」というときには完全養殖以外の方法も含まれる。天然のやせた魚や幼魚を捕獲して、商品価値の出る大きさにまで育てて出荷する「養蓄」も同じ養殖ではあるが、天然資源を損なうものであり、完全養殖とはその意義が大きく異なる。近大水研はマダイなどでこの完全養殖を達成しており、その実績と経験を買われてこのプロジェクトに招聘されたのだ。
「海を耕せ」という設立趣旨のもとに誕生した近大水研の足跡も実に興味深い。1960年代からハマチの養殖魚販売を行っており、2003年には養殖稚魚及び成魚の販売等を行う株式会社アーマリン近大を設立している。今でこそ大学発ベンチャーに大きな注目が集まっているが、40年前は大きく事情が異なる。「研究費は自分で稼げ」とばかりに、養殖に成功したハマチを市場で売りまくって研究資金にしていた近大研に対する周囲の目は冷ややかなものだった。大学や学会からはあんなものはアカデミズムを汚す行為だと言われ、漁協からは商売敵として睨まれたようだ。基礎研究偏重の日本の大学、学会のこのような姿勢は現在もそんなに変わっていないのではないか。
持続的な漁業のあり方、大学と事業の関係性など本書は色々なポイントに注目しながら読むことができるのだが、不可能とも思える完全養殖に挑む著者率いる研究者たちの奮闘がやはり一番の興奮しどころだろう。「えー、また!?」と読んでいる方も声をあげたくなるほど、本当に失敗の連続なのだ。
完全養殖のためには天然のマグロの幼魚(ヨコワ)が必要なのだが、そもそもこのヨコワが手に入らない。何とかその生息地を探し出しても、触っただけで死んでしまう。様々な難関をくぐり抜けヨコワが育ち始めたと思ったら、一夜にして突然の大量死。誰だってがっくりくるだろう。大量死の原因はなんと車のヘッドライトなのだが、突然の光に驚いたヨコワがパニックを起こし、壁に激突してしまっていたのだ。本当にデリケートな魚である。マグロの養殖ができれば、どんなに気難しい相手とのデートでも赤子の手をひねるようなものだろう。
研究開始から32年後、ついに成功した完全養殖の秘訣とは何だったのだろうか。本書から伝わってくるのは、このような研究には全ての問題を解決する「魔法の秘訣」など無いということだ。土曜も日曜もなく、お盆も正月もなく、ただただ魚のことだけを考え、目の前の問題を一つ一つ解決していく以外にこの偉業を達成する方法はなかったのではないだろうか。本書を読めば、もっと魚を食べたくなる。