世界四大文明といえば?
義務教育時代の記憶を掘り起こせば、センター試験で地理を選択した理系の私でも、エジプト文明、メソポタミア文明、黄河文明、そしてインダス文明の名を辛うじてあげられる。この“四大”文明というくくり方には様々な異論もあるようだが(2009年出版の『もういちど読む山川世界史』にも「四大文明」という表現はみられない)、大河に支えられて発達した初期文明としてこれらを認識している方は多いはずだ。
それでは、インダス文明について何か具体的にイメージできるものはあるだろうか。モヘンジョダロ、ハラッパー遺跡以外になにも思いつかなくても無理はない。下の数字はGoogle検索によるヒット件数(2013年11月10日現在)だが、インダス文明は四大文明の中で最低の数字を示す、日本人にとって最もマイナーな存在といえるからだ。
エジプト文明:1,930,000
黄河文明:512,000
メソポタミア文明:258,000
インダス文明:168,000
四大文明の一角を担いながらも、その認知度が低いのにはいくつか理由がある。先ず、1つの文明圏であることを示す度量衡の存在などは確認されているものの、インダス文字が解明されていない。そして、遺跡がインド・パキスタン国境をまたがる紛争の絶えない地域に位置するため、発掘作業が困難である。そのため、エジプト文明、メソポタミア文明ほどにはインダス文明の姿は明らかになっておらず、世間の関心が高まる機会も少なかったということだ。
しかし、徐々にではあるが、紀元前2600年~紀元前1600年ごろに栄えたインダスの謎は明らかになってきている。本書は、基礎的なファクトからインダス研究の最先端までを丁寧にを概説しながら進んでいく。どのような学者がどのような主張をし、どのような点が争点になっているかが巧く整理されているので、前提となる知識を必要とせず、多くの読者が楽しめる作りとなっている。ちなみに、インド国籍ではパキスタンへの、パキスタン国籍ではインドへの入国がそれぞれ困難なため、ローカルの研究者よりもアメリカの研究者がこの分野をリードしているようだ。
本書で提示されるインダス文明の最新像は、我々の常識を覆すものが多い。
・インダス文明には、中央集権的権力構造も戦争もなかった。
・インダス文明は、インダス川によってではなく、モンスーンによって支えられていた。
まだまだ決着の付いていない仮説ではあるものの、都市文明の形成には秩序をもたらす巨大な権力構造が、文明の発展を支える農業には大河によってもたらされる肥沃な大地が必要だという常識は、インダスを見つめることで大きく揺らいでくるかもしれない。
驚きの文明像に加えての本書の読みどころは、最新の考古学研究手法による謎解きにある。研究者たちはどんな小さな証拠も見逃さない。動物、植物、さらには環境など、各分野の専門家たちが協力しながら、切れそうなほどに細い、過去と未来をつなぐ糸を手繰り寄せていく。現代の考古学研究が総力戦であることがうかがえる。著者自身も考古学でなく、言語学を専門としており、現代に残された希少言語の研究から、インダス文字への手がかりを探っているという。探偵のように、謎のベールを剥いでいく様を是非本書で堪能して欲しい。
例えば、当時の人々が何を食べていたかという情報は、彼らの生活や文明の成り立ちを知る上でも非常に重要だ。しかし、4000年以上前の食卓事情をどのように探ればよいのか。本書では、現代人を悩ませる意外なものが鍵となった研究が例示される。その鍵とは、歯石である。インダス人の歯にこびりついた澱粉は歯石となり、数千年の風雪(地域的には風熱といった方が適切だろうか)に耐え、彼らがカレーを食べていた可能性を今に伝えてくれるのだ。また、歯そのものの分析から、インダスで「女性優位の社会」が形成されていた可能性を指摘する研究もある。これらの物的証拠をどのような手法で分析し、このような驚きの結論に至ったかの詳細は本書に譲るが、期待を裏切らない知的興奮をもたらしてくれることを約束しよう。
著者は総合地球環境学研究所のインダス・プロジェクトのリーダーとして、多くの遺跡をその足で訪れており、研究の苦労や楽しみ、そして遺跡の生の姿がいきいきと伝わってくる。本書には著者自身の手による写真も含めて、90にも及ぶ図版が添えられている。遺跡の壮大さを見るにつけ、どうしてもその古代の空気を生で感じてみたくなる。研究が進み、政府の観光対策に力が入れば、イタリアのポンペイ遺跡のような一大観光地になるのではないか。
インダスの遺跡といえば冒頭にあげたモヘンジョダロとハラッパーが有名だが、インダス文明は決してこの2大都市だけから成っていたわけではではない。現在では、これ以外にも3つの大都市遺跡が発掘されており、現在では5大都市説が主流のようだ。大都市に付随する遺跡の数も膨大で、2012年の研究ではその数は2600にも上ると報告されている。2002年の時点では1000を超える程度と報告されていたことを考えると、これからも遺跡の数は増え続けるだろう。インダスには、解き明かされるのを待ちうけている謎が、まだまだ沢山あるということだ。
時が経てば経つほど、固定された過去は遠くになっていく。しかし、新たな研究によって証拠を積み上げていけば、遠くなったはずの過去をより鮮明に、身近なものとすることもできる。中央集権的でない文明の仕組みが明らかになれば、これからの人類の社会のあるべき姿のヒントが得られるかもしれない。大河によらない文明からは、自然との上手な付き合い方が見えてくるかもしれない。過去からの延長線上に未来を外挿することはできないが、過去のない未来もまた存在しえない。我々は過去の探求から何を得るのだろうか。明確な答えは得られなくても、過去の謎を解き明かす過程自体が、この上ない楽しみであることは間違いない。
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インダス文明がどのように水を利用していたかを考えるさいも、流域を軸に考える必要がある。「流域」とは、雨水が川に至るまでの範囲のことだが、でこぼこな地球に暮らす私たちにとっては、非常に大きな意味を持つ。流域地図から考えることで、近年その強度が増している台風や豪雨から身を守る術も見えてくる。自然を見る目に新たな視点を与えてくれる。
インダスには大きな戦争の痕跡を示すような瓦礫や人骨の跡がみられないというが、こちらの本の圧倒的な内容を読むと、今後の発掘でインダスでもなんらかの争いの跡が見つかるのではないかと思えてくる。人類はなぜ戦争するのか?という根源的な問いに、人類の期限まで振り返りながら挑んでいく。レビューはこちら。
こちらは『インダス文明の謎』と同じく、京都大学学術出版会の学術選書シリーズの一冊。我々の生活を支える天然ゴムがどのような冒険の末に発見され、地球全体へと広まっていったのか。あぶなっかしいウィッカムの冒険譚に胸が熱くなる。レビューはこちら。
インダス・プロジェクトの成果をまとめた一冊も、先月発売されたばかり。より深くインダス文明の謎、インダス文明崩壊の原因を探る。