今でも目を閉じれば、あの暗闇を容易に思い出すことができる。アハフーという声もはっきりと覚えている。機会があれば、もう一度ワトリキを訪れ、あの闇に包まれたいなとも思う。その一方で、畏れもある。また何かが壊れてしまうのではないかという畏れがある。
おそらく、彼らを否定してしまえば何も起きなかったはずだ。彼らは違うのだ、僕たちとは違うのだ、と切り捨てていれば、心身が壊れることはなかったに違いない。でも、そうは思わなかった。むしろ、同じなのではないか、と思った。
だから、帰国してからも考え続けた。番組を作りながら考え、番組が終わったあとも考えた。なのに、やはり、分からない。考えれば考えるほど何かが壊れていくような感覚も変わらない。心身は不健全なままで、求める答えも見つかりそうになかった。
ある時、映画監督の吉田喜重氏とヤノマミについて対談する機会があり、藁にもすがる気持ちで聞いてみた。氏は「人間が解決のできない問題を提示することこそ、ドキュメンタリーなのではないか」と言った。そして、そんな場面に立ち会えたのは幸運なことなのだと静かに付け加えた。また、番組のナレーションを引き受けてくれた舞踏家の田中泯氏は「分からないということは素晴らしいことなのだ」と言った。
僕は「考えることを止めるな」という意味だと受け取った。
正直に言うと、心身が壊れたことは不安なことではあったのだけれど、けっして不快ではなかった。その感覚を上手く説明することはできない。ただ、僕はワトリキで人間が持つ「何か」に触れ、しかも、その「何か」を肯定したことだけは間違いなかった。言葉にすれば、レヴィ=ストロースが言ったように「人間が持つ暴力性と無垢さ」なのだと思う。人間は暴力性と無垢さを併せ持つからこそ素晴らしい。人間は神の子でも生まれながらの善人でもなく、暴力性と無垢さが同居するだけの生き物なのだ。たぶん、僕はそう思ったのだ。
僕はそのことを認めることから始めたいと思った。ちょっと大袈裟ではあるのだけれど、貧困問題や9・11後の世界や天皇制や戦争や死刑制度を考える時も、そのことから始めたいと思った。
150日に及ぶ同居取材はNHKのハイビジョン特集(109分)とNHKスペシャル(59分)、そして劇場版(113分)に結実した。番組は多くの人の力によって、僕が体験したもの以上となった。スタッフ全員に感謝するとともに、特に生死を共にしたスタッフ、カメラマンの菅井禎亮氏、ブラジル側スタッフの木下庸子氏とエドワルド・マキノ氏には特段の謝辞を送りたい。あなたたちはかけがえのない同志であり、あなたたちなしでは、この取材をやり遂げることはできなかった。
今、ブラジルでは先住民保護区の撤廃論議が盛んだ。おそらく、2014年のサッカーW杯と2016年のリオデジャネイロ五輪に向けて、開発の波はブラジル全土で加速し、保護区の存在は風前の灯になるに違いない。その時に、ワトリキの人々はどうなってしまうのだろう……。
僕にできることがあるとすれば、彼らに「文明」の恩恵をもたらすことではなく、彼らが希望する生き方を全うできるよう、友人として手を差し伸べることだと思う。だから、彼らが望むなら、保護区存続運動の力になりたいと思っている。
ワトリキの人々が今頃何をしているのか。同居を終えてから1年が過ぎた今も、よく考える。でも、きっと彼らは僕らのことなど忘れてしまったに違いない。間もなく始まるラシャの祭りに向けて、夢中になって議論を交わし、あれこれ準備に忙しいに違いない。でも、ひょっとすると、誰かが軟弱なナプのことを思い出し、話のネタにしているかもしれない。あいつらみたいな弱い人間は見たことがないと笑っているかもしれない。そして、あの暗闇では、アハフー、アハフーという笑い声が今日も響いているかもしれない。
そうであるなら、僕はとても嬉しい。僕は、そんな彼らがとても好きだった。
2010年1月 国分拓
※『ヤノマミ』は、2010年3月にNHK出版より刊行されたものの文庫版です。その後の動向は、こちらの文庫版追記で。
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