フェアプレーってなんだろう――スポーツ科学の現在

2013年10月23日 印刷向け表示
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The New Yorker [US] September 9 2013 (単号)

作者:
出版社:Conde Nast Publications
発売日:2013-09-13

『ニューヨーカー』誌の9月9日号に、エリート・アスリート、つまりは並の人ではなく、人間の能力の極限に挑戦する運動選手を通して見るスポーツ科学の現在、といったなかなか興味深い記事が載っていました。その分野の関連書籍をいくつかまとめて紹介しながら、「フェアプレーって何だろう?」といったことまでも考えさせる内容でした。

 

ところで、『ニューヨーカー』に掲載されたスポーツ関連の記事としては、もうかれこれ15年ぐらい前に、マルコム・グラッドウェルが書いていた記事が、なぜか今も印象に残っています。(マルコム・グラッドウェルが『ニューヨーカー』に寄せた記事のいくつかは、勝間和代さんの訳で『THE NEW YORKER傑作選』として邦訳されているようですね。このスポーツに関する記事が含まれているかどうかは知りませんが。)

 

さて、おぼろげな記憶によれば、グラッドウェル自身、学生時代に陸上をやっており、そのときの気分――「白人として陸上をやるのは、どんな気分がするものか」――から、その記事ははじまっていました。グラッドゥエルが言うには、白人で陸上をやる者の心には、「たとえ今はちょっとぐらい良い記録を出せたとしても、いずれは黒人に抜かれていく。陸上は白人にとって土俵が悪い、先がない……」という、暗い気分がつきまとっているということでした。

 

その「先がない」という暗い気分のほかにもうひとつ、グラッドウェルの記事で印象に残っているのは、何であれ人間の能力を、遺伝と結びつけて考えることに対する、後ろ暗いタブー感です。なにしろ遺伝学は、優生学という重い負の遺産を背負っていますからね、グラッドウェルはその点にかなり気を使っていました。十五年前には、遺伝研究をめぐる情勢には、たしかにそんなヤバげな気分が漂っていたかもな、と懐かしく思い出しました。

 

もうね、時代は変わりましたね。このたびの『ニューヨーカー』の記事を読みながら、そう思わずにはいられませんでした。なんといってもアメリカでは大統領が黒人になっているわけですし、黒人が活躍する分野も、スポーツと音楽ばかりではありません。もうね、遺伝も含めて、科学的知識なしには、少なくともエリート・アスリートの世界では(素人は好きなスポーツを自分なりに楽しめばいいわけですが)、戦えないという時代になっているのですね。

 

かつては差別とエセ科学と根性論が跳梁跋扈していたスポーツ界ですが(と、言ってしまいますが(^^ゞ)、いよいよ科学なしにはトレーニングすらまともに組み立てられないという状況になっているようです。

 

というのも、かつては生まれつきと思われていた能力が、実は子どものころからの訓練による膨大な経験のデータベースにもとづいた判断の賜だったり、努力と根性で身に付くものと思われていた能力(たとえば持久力や筋力)が、実は遺伝的にかなり決まっている(もう少し詳しく言うと、トレーニングによって、持久力や筋力がどれぐらい効率的に作られるがかなり決まっている)ことがわかったり、アスリートにとって非常に重要なことがガンガン解明されているからなのです。

 

たとえばラグビーで、スプリンター型の筋肉を持つ選手に、持久力型の筋肉を持つ選手と同じトレーニングさせれば、選手として花開く前に、故障してフィールドを去ることになってしまう。それはあまりにももったいないでしょう?

 

で、黒人アスリートがなんであんなにすごいのか、という話ですが、じつはグラッドウェルの記事が書かれたころにはすでに、その理由はわかっていたのでした。ひとことで言えば、アフリカ人およびアフリカ系の人々(以下では両者ひっくるめて「アフリカン」と言います)遺伝的な多様性が大きいのですね。

 

それもそのはず、アフリカでは長い長い時間をかけて遺伝的な変異が蓄積され、大きな多様性が生まれていました。それが、わずか9万年ほど前に、たかだか二、三百人の人がいわゆる「出アフリカ」をして、あれよあれよという間に世界中に広がったわけです。アフリカ以外の土地では、遺伝的多様性が乏しくなるのも当然と言えましょう。

 

それがどういうことかをもう少し具体的に説明すると、たとえば、百メートル競技で世界最速の男がアフリカンである可能性が高いとすると、世界最遅(?)の男もまたアフリカンである可能性が高いということです。同様に、バスケットボールで世界最高のプレイヤーがアフリカンである可能性が高いとすると、世界最低のプレイヤーもまた、アフリカンである可能性が高いというわけです。

 

陸上競技やバスケットボールなどは、その競技世界に入る敷居が低いので(あまりお金がかからないため)、すでにアフリカンの活躍が目立ちますが、今後、敷居の高いスポーツ、たとえば、アイススケートとか、水泳とか、テニスとか、そういうお金がかかりそうなスポーツにもアフリカンが進出してきたとすれば、最高のプレイヤーも最低のプレイヤーも、アフリカンである可能性が高いのでしょう。

 

(最低のプレイヤーなんてものは、多様性を説明するためだけの意味しかありませんけれどね(^^ゞ)

 

そして、こういう背景を知れば誰しも思うことでしょうが、スポーツや音楽だけでなく、もしもアフリカンが大々的に進出したなら、どんな分野でも、際立った活躍するのはアフリカンなのかもしれません。だとすれば、遺伝的多様性という観点からは、アフリカってかけがえのない宝の山ですよね。Save Africa!って思っちゃいますね。うう、アフリカ、がんばれ!!(←いま、アフリカはいろいろと大変な状況なので……)

 

アフリカンな話題のほうに大きく脱線してしまいましたが、スポーツ科学の話題はは、当然ながらアフリカンの遺伝的多様性に限られるわけではありません。このたび『ニューヨーカー』に紹介されていて、読んでみたらめっっちゃ面白かったというのが、the SPORTS GENEという本です。もう、どの章ものめり込むように読んでしまいました。

 

The Sports Gene: Inside the Science of Extraordinary Athletic Performance

The Sports Gene: Inside the Science of Extraordinary Athletic Performance

 

  • 作者: David Epstein
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    出版社: Current Hardcover

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    発売日: 2013/8/1

この本に書かれていた、面白い(というか衝撃的な)内容について話しだしたらキリがないのですが、たとえばXY型女性というのがあります。これは、ちょっとした受精のときの事故のせいで、遺伝子を調べるとXY染色体を持っているのに。見た目は女性だっていう人たちのことです。本人も、自分は女性だと思って成長するようです。しかし、見た目は女性なのですが、調べてみると子宮と卵巣はなく、睾丸が見えないところに存在しているのだそうです。そして、血中テストステロン濃度が、男性並みに高い。

 

一般的な人口では、XY型女性は数万人に一人と言われますが、オリンピック選手レベルのアスリートでは、三百人から四百人に一人になるそうです。でも、XY型女性が、女性として競技するのはフェアなのでしょうか?

 

この件に関しては、やはり、XY型女性が女性として競技に参加するのはフェアではない、と考える人が多いことでしょう。しかし、XY型女性の中にも、ちょっとした事故のせいで、せっかくの(?)テストステロンが利用できないような仕組みになっている人もいるのだそうです。テストステロンが利用できないのなら、女性として競技してもよかろう、という判断もあるでしょう。実際、その判断が下されたケースもあります。でも、テストステロン濃度だけが、性の判断基準になるのでしょうか? それとも、何かもっと妥当な、性の判断基準がありうるのでしょうか?

 

その他にも、the SPORTS GENE には、なぜジャマイカのトレローディ地区出身者(ウサイン・ボルトもその一人)には、百メートルのスーパースターが続出するのかという謎について、現地に伝わる伝説(奴隷貿易をめぐる心惹かれる物語です)、そしてその伝説に科学のメスを入れてみた結果など、思わず引き込まれるエピソードが盛りだくさんなのですが……ここではドーピングに関係する話題を一つだけ。

 

DNAの塩基配列のうち、たった一文字が変化したせいで、普通の人たちよりも1.6倍ほど血中ヘモグロビン濃度が高い人がいるのだそうです。ヘモグロビンが多くても別に病気になることもなく、単に、たいへん健康で、持久力があるらしいです。そんな恵まれた体質の持ち主の一人に、エーロ・マントゥランタさんがいます。

 

このページを見れば、マントゥランタさんがどれだけメダルを取ったが一目瞭然のリストになっています。

 

アスリートとして実に恵まれた資質ではありますが、しかし、マントゥランタさん、ドーピングの疑いをかけられて、現役の頃はなかなか大変だったようです。

 

今では彼の身体的特性が解明されており、まぁ、ラッキーな遺伝子変異をお持ちですね、ということになります。マントゥランタさんが競技に出場することについては、おそらく異論のある方はいないでしょう。いないですよね?

 

それに対して、ヘモグロビンを増やすホルモンを使うという行為は、もちろん、ドーピングです。では、自分の血液を計画的に採取して保存し、計画的に自分に輸血するのはどうでしょう? これももちろん、ドーピングだ、と判断する人がほとんどだと思います(よね?)。

 

でもそれ、やっちゃいけないドーピングなんですかね? 『ニューヨーカー』の記事に、あわせて読みたい本として紹介されていたのが、『シークレット・レース』。

シークレット・レース (小学館文庫)

作者:タイラー ハミルトン
出版社:小学館
発売日:2013-05-08
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  • 紀伊國屋書店
  • 丸善&ジュンク堂

(※東えりかのレビューはこちら

 

わたしはこれを読んでいないのですが、過酷な競技におけるドーピングとは何かについて考えさせられる本でもあるようです。ドーピングというと、世間では、怠け者が楽をして筋肉をつけたり持久力をつけたりすること、というイメージで見られているけれども、実は、エリート・アスリートの世界では、むしろ自分の限界を超えて、辛く苦しいトレーニングをするためにやっている(マントゥランタさんのような人とフェアに戦うためにやる、みたいな?)、という気分が漂っているらしいのです。

 

でも、たとえ自分の血液を自分が使うにしても、これはやってはいけないことですよね? ドーピングはドーピングだろう、と思う人が多いでしょう。

 

では、自分の脚の腱を、手に移植するのはどうでしょうか? それをやると、野球選手の投球能力が格段に上がるそうなんです。そして、『ニューヨーカーの』記事によれば、な、なんと、大リーグの投手の三人に一人は、その移植をやっているそうです。マジっすか…。

 

ドーピングの問題は別にしても、人間の資質の多様性が解明されるにつれて、フェアプレーってなんだろう?と考えずにはいられません。もちろんフェアプレーは、目指すべき一つの理想なんでしょう。でも現実には、どう考えたらいいのでしょうね? 人間の能力って、そもそもフェアなんですかね? ドーベルマンがチワワの競技に参加するのはフェアなのか……?

 

難しいけど、まちがいなく、面白い問題ではあります。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • HonyzClub

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