化学同人が、なぜ哲学の本を? 不思議に思われる方もいるかもしれません。かなり異分野のはずですから。このギャップをつなぐのが『脳がつくる倫理』なのです。
著者のパトリシア・チャーチランドは、夫のポールとともに、心の哲学では中心的な研究者です。ふたりは、脳科学の成果を取り入れて心の本質を見極めようとする自然主義の立場をとり、とくに消去的唯物論を唱えたことで知られています。これまでの心理学の説明が、脳科学の説明に取って代わられ、前者はやがて消えていくというラジカルな主張です。
この本を知るきっかけはNature誌の書評(有料記事)でした。道徳、倫理という「主観的」「文系的」と思われるテーマに、自然科学に基づいて迫るという内容に興味を引かれました。もっともその書評は、哲学者のもので、「科学の側からの見方に過ぎない」という評価でしたが。
従来、科学が扱わなかった対象に挑むという内容に、ここ数年、関心をもっています。昨年は『ヒトはなぜ神を信じるのか』を企画・制作しました。この本では、信仰が進化心理学から分析されています。HONZでも紹介していただきました。
新しく翻訳する本には、何か新しい主張がなければ面白くありませんが、一方で学問的に認められる議論でなければ、説得力に欠けます。今回は刊行後で書評が出ており、著者もよく知られているので、検討はスムーズでした。これが企画書や原稿の段階だったり、著者の初めての本だったりすると、専門家の意見を集めるなど、より慎重に裏づけをとります。
翻訳者には、著者と専門が近く、夫のポールの本も翻訳している信原先生に打診しました。幸い快諾していただき、堅先生、植原先生とともに翻訳していただきました。信原先生がパトリシアと知り合いで、新たに日本語版への序文と近影も入手できました。
心の哲学ではラジカルな立場ですが、訳者あとがきにも書かれているように、道徳について過激な主張がされているわけではありません。今ある道徳観を生物学的に説明しようとしています。まず自分を気遣い、次に愛着によってわが子を気遣い、配偶者、近親者、そして他人に気遣いを広げ、人間全般での信頼が形成される、それが進化的に有利であった、その気遣い、愛着、信頼が生じるのに神経伝達物質のオキシトシンが重要な役割を果たしている、と言うのです。化学にも近づいています。
オキシトシンといえば、最近、ダイヤモンド社さんからポール・ザックの『経済は「競争」では繁栄しない 信頼ホルモン「オキシトシン」が解き明かす愛と共感の神経経済学』が出ていますね。オキシトシンスプレーも市販されているようですが、試した方はいらっしゃいますか?
刊行して1か月あまり、売れ行きは堅調です。定評のある哲学者ですから、この分野に関心の高い人たちに読まれているようです。心の哲学の基本文献になることも想定して、注、索引、参考文献は丁寧につくりました。できれば全国紙の書評にも取り上げられて、もっと多くの人たちに、この本を知ってもらいたいですね。
化学同人 加藤貴広
*「編集者の自腹ワンコイン広告」は各版元の編集者が自腹で500円を払って、自分が担当した本を紹介する「広告」コーナーです。HONZメールマガジンにて先行配信しています。