1961年4月12日が何の日かご存知だろうか。この日はソビエトのヴォストーク1号によって人類が初めて宇宙に飛んだ日であり、「世界宇宙飛行の日」として記念日にもなっている。
「その日」に生まれた著者は、自分が宇宙に行くことを当然と信じて子供の頃から宇宙飛行士を目指すも、敢え無く宇宙飛行士選抜試験に落選してしまう。宇宙飛行士選抜試験の独特の内容は『ドキュメント 宇宙飛行士選抜試験 (光文社新書)』や『ホリエモンの宇宙論』にも詳しいが、もはや何のための試験だか良く分からない。著者と面接官の毛利衛さんとのやり取りはまるで漫才のようで面白いが、毛利さんの方が一枚上手。著者がもう少しうまい切り返しをしていれば合格していたのかもしれない。そんな能力が宇宙飛行士の何に役立つのかと疑問に感じなくもないが、「2番じゃダメなんですか?」と問われたときに、瞬時に宇宙開発の大切さを語れる瞬発力までもが宇宙飛行士には求められているのだろう。
宇宙飛行士への夢が破れて茫然自失となったのも束の間、宇宙に行けなくなった著者は代わりに地球を隅々まで調べ尽くすことを決意し、研究範囲は文字通り地球の端から端にまで及ぶ。水深数千メートルの深海に潜ったと思えば、チリのアタカマ砂漠で微生物を追いかけ、寒いのは苦手だと言いながら南極へ跳ぶ。「誕生日」という偶然を信じて宇宙への夢を追い求めた執着心もたいしたものだが、切り替えの大胆さもたいしたものだ。人間はどこから来てどこへ行くのか、生命とは何か、を追い求めたいという根源的な欲求が自分を動かしていることに気がついたからこその切り替えだと自身で説明しているが、著者はこの欲求を「『生命とは何か』とは何か」という問いへと変換する。
本書は著者が「『生命とは何か』とは何か」について、広島大学附属福山中・高等学校の生徒と対話した結果をまとめたものであるが、相手が高校生だからと言って侮ってはいけない。広島大学付属福山中・高等学校といえば中・四国地方でも有数の進学校であり、広島県出身の私もこの学校を当然知っている。
本書の対象範囲は著者の研究範囲と同様幅広い。漫画『ワンピース』の「悪魔の実」を食べた「能力者」のような生物はありえるかという話題から生命のカタチについて、L-システムで生命をどのように数式で記述できるかについて、更にはエントロピーと生命の関係やシンギュラリティについて、著者が投げかける問いに高校生たちも必死で喰らいつき、時には著者も驚く問いを投げ返す。さすがは10数年前に私に不合格通知を送りつけてきた学校の生徒たちである。
「生命とは何か」を考えるためには、先ずどのような生命がいるかを把握しなければならないので、本書にはかなり特異な生命が登場する。例えば太陽光の届かない暗黒の海底火山に生息するチューブワームは我々とは相当に異なる。そもそもエネルギーの取得方法が全く異なっており、彼らはモノを食べない。モノを食べない代わりに共生する微生物から栄養を摂取しているのだが、この微生物も太陽光ではなく火山のエネルギーからでんぷんをつくりだしており、もはや我々との共通点を探し出すことの方が困難だ。こんなものまで生命なのだから、生命の境界線引きはなかなか難しく、また、面白い。
本書で著者と生徒の対話を追体験することで、宇宙の始まりから終わりまで、さらには海底の微生物から古代のアノマロカリスまで、視点が目いっぱい広がり、ワクワクドキドキしてしまう。森博嗣の『科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)』では科学の楽しさではなく、科学的思考の欠如がもたらす不利益にフォーカスしてその重要性が訴えられている。溢れるほど娯楽がある世の中で、科学の楽しさを主張するだけでは科学に興味を持たせることは難しいという主張は全く納得である。しかし、このような本を読むとついつい科学の楽しさを押し付けたくなってしまう。