ど真ん中の直球を投げられた。これはもう振り切るしかないと念じて、必死でバットを振り抜いた。どうにか当たることは当たったのだが、想像を絶するほどの、とてつもなく重いボールだった。例えてみれば、こんな感じだろうか。
冒頭から著者の挑戦状が、読者に叩きつけられる。本書は、社会心理学を俯瞰する教科書ではない、と。人間をどう捉えるか、願いはそれだけだ、と。生物や社会を支える根本原理は同一性と変化であるが、この2つの相は互いに矛盾する。あるシステムが同一性を保てば変化できないし、変化すれば同一性は破られる。同一性を維持しながら変化するシステムは、どのように可能なのか、と著者は問いかける。このテーマを軸として、フェスティンガーとモスコヴィッシという2人の先達の発想を学びつつ、読者は深くて溟い森の奥に導かれることになるのだ。
全ての学問(科学)は、常識を疑うところから始まるが、本書のページを捲る度に、私たちの常識は強烈なハンマーの一撃で粉々にされてしまう。アトランダムに幾つか拾ってみよう。
「真理はどこにもない」「正しい社会の形はいつになっても誰にもわからない」「人格や意思が行動を決定するという西洋近代が生み出した個人主義的人間像は人間の実情に合っていない」「人間は周囲の影響を簡単に受ける。しかし、同時に我々は自立幻想を持つ。」「異質性よりも同質性の方が差別の原因になりやすい」「犯罪は正常な社会現象」「伝統は後の時代に脚色された虚構」、そして「日本の西洋化の背景に見るべきは、新しい物好きで好奇心旺盛な模倣者ではなく、荒々しい野生の外部を馴致された<外部>とすり替えて内部化する奇術師の姿でしょう」等々、小坂井ワールドが炸裂する。読者は、嫌でも自問せざるを得ない。そして、自分と向き合うチャンスが与えられることになるのだ。「本当に大切なのは自分自身と向き合うことであり、その困難を自覚すること、それだけです。」と著者は言い切る。
本書は、これまでの小坂井ワールドの集大成でもある。執筆には10年以上を要したというが、当初考えたタイトルは、「社会心理学の敗北」であったという。「人間という存在を理解するために社会と心理の知見を統合するという最初の野心を忘れ、心理学の軒を借りて営業する小さな屋台になり下がった」現在の社会心理学に対する著者の愛憎が本書に結晶するまでに、それだけの時間が必要であったということであろう。編集者との強い絆の下に、本書が無事、完成した幸運を噛み締めたいものである。
本書は、今年度に入って読了した数多の本の中では、白眉の1冊である。およそ全てのビジネスは、人間と人間が作る社会を対象としたものである。そうであれば、ビジネスには、人間とその社会に対する深い洞察が欠かせない。その意味で、本書は疑いなく、今年度最高のビジネス書の1冊であると考える。1人でも多くの真の経営やマネジメントを志す人にこそ、熟読してもらいたい本だ。
出口 治明
ライフネット生命保険 代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。