人体を目、耳、心臓、骨、消化管、血液など15のパーツにわけ、それぞれについてじっくりと語った本である。全320ページにわたって「とても 美しい」のような、装飾的な副詞や形容詞がほとんど使われていない稀有な本でもある。一文一語たりとも無駄はなく、したがって重複もないので、逐語的に理解しながら読み進める必要がある。結果的に収容されている薀蓄は膨大だが、文体は簡明にして明晰、超長編のスーパー人体エッセイとして楽しむことができるはずだ。
第1章は眼。日本語では生物学的な意味がない場合は「目」、ある場合は「眼」という漢字を使う、という前振りから、芽や亀など同じ「メ」音を含む漢字の成り立ち、「跡目を継ぐ」などさまざまな慣用句、自衛隊における「注目」という号令と英語での「Eye Front!」という号令の類似性、光明皇后の眼病全快を祈念して建てた新薬師寺の話など、文学系の本かと思わせるようなところから壮大なる薀蓄は始まる。新薬師寺の新とは「新しい」という意味ではなく「あらたかな」という意味だと付け加える念の入れようだ。ここまででたった2ページ、31行だ。
著者は基礎生物学などを専門とし、ながらく富山大学理学部や金沢大学理学部で教鞭をとっていた研究者だから、本題は人体パーツの構造や形態、分子生物学的な研究の現状や最新の知見などであるはずだが、そこに行きつく前にさらに興味深い文系の薀蓄が語られるのだ。じっさい、第1章では上記にひき続き、井原西鶴の『好色一代女』での美人論、一重まぶたと二重まぶたの構造、なぜバセドー病の目が飛び出して見えるのか、モナ・リザの左目にある白っぽい粒(眼瞼黄色腫)と虚血性心疾患などとの関係、さらにはモナ・リザのモデルの発掘調査と新たに発見された『若いモナ・リザ』の絵の真贋などなどに3ページを使っている。第1章は50ページだから残りの45ページにはいよいよ生物学的・医学的な薀蓄がこれでもかと詰め込まれるのだ。
しかし、眉毛は1300本で長さは7−11ミリ、上のまつげは350本で長さは8−112ミリ、下のまつげは70本で長さは6−8ミリなど形態学的な記述がはじまったとしても、けっして油断してはならない。いきなりマスカラの話になり、じつは化粧品会社メイベリンニューヨークの社名は創業者の妹の名前であるメイベルとワセリンの合成語だと、思わぬ方向へ薀蓄が進んでしまう。
その後は涙腺と涙の流れる経路、すなわち涙点、涙嚢、鼻涙管、鼻腔の説明や、あくびをすると涙がでる理由が語られる。お次の話題は「まばたき」で生き物によるまばたき回数の違い、まばたきは下瞼が速く動き出すこと、その理由は脳からの神経の長さの違いであること、まばたきをすると眼球は0.15ミリ引っ込むこと、まばたきで眼が閉じてから開くまでに400ミリ秒かかるが、その間は脳の視覚野への映像の投射が中止されていること、などなど小中学生にも理解できる愉快な情報がこれでもかと詰め込まれる。ここまででまだ9ページだ。この「眼」の章にはまだ41ページあるのだ。
読者が唖然としてようが、呆れていようが、ともかくどんどん前に進む。コンタクトレンズが眼球の裏側にいかない理由、涙のなかの殺菌成分、シェイクスピアの『ヘンリー6世』にでてくる「ワニの空涙」、小泉八雲の「鮫人の感謝」という奇談、女性の涙に含まれる男性ホルモンを低下させるフェロモン様物質など、ともかく前に進む。
第1章もやっと半分まできた。このあと水晶体、硝子体、網膜、眼を作る遺伝子、色覚と人間の遺伝子、進化からみた眼の由来などが、例の薀蓄をぎっしりと詰め込みながら語られていく。この後半は医学・生物学的な情報が多くなるのだが、途中にアポトーシスやiPS細胞の説明なども組み込んであるため、初学者でも理解に困らないであろう。これでやっと第1章50ページの説明だ。あと14章。もうお分かりであろう。これで2400円は安すぎる。