明治37年(1904年)12月6日、株式会社三越呉服店が創業した。17日には1ページぶち抜きの新聞広告が踊る。
当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、衣服装飾に関する品目については一棟の下にて、ご用弁相なりよう設備いたし、米国におけるデパートメントストアの一部を実現いたすべく候事
これが後世に残る日比翁助の「デパートメントストア宣言」である。三百年の歴史を持つ三井呉服店越後屋が生まれ変わった瞬間だ。百貨店という訳語さえないこの時期に、デパートメントという英語を使い「公衆の利益を最優先する」「フェアプライスを貫く」という経営理念を掲げ、生産から仕入れ、販売方法など、江戸時代から続く商習慣をすべて塗り替えたのが日比翁助という男であった。
久留米藩の剣術一家に生まれ、武士として生きるはずが幕末維新の嵐の中、翁助は父のすすめで、東京で学び地元で塾を開いた江碕済のもとで学び始める。漢学者でありながら自由な思想を持つ江碕のもとで、翁助は学ぶということはどういうことかを叩き込まれ、生涯の友人を得た。
ついで慶應義塾大学に進学する。ここで英語漬けの日々を送り、師である福沢諭吉から「士魂商才」の志を学ぶ。
身に前垂れをまとうとも、心の内には兜を着ていることを忘れないようにせよ
武士の知識性と道徳性とを経済面に活用しようというのがこの言葉の意味である。士農工商の江戸時代、商は卑しいものであった。しかし時代はかわり、武士であった者でも商売を貴い学問として、武士の魂を忘れず、利潤の追求を求める。福沢諭吉はそういう人材の育成に努めたのだ。
同じ時期、三井家は苦しんでいた。「お主も悪よのう、ふぉふぉふぉ」の両替商と、綺麗なお嬢さんがお決まりの越後屋呉服店が三井家の祖業である。明治維新の折、京都の豪商のひとつだった三井家は国金出納事務の代行を命ぜられ、両替商は三井銀行となった。東京に本拠地を移し、事業は拡大していく。一度は切り離された呉服屋も宗家の稼業ということでグループの中に統合されていたが、旧態依然とした商業方法では文明開化の世の中では赤字になるばかり。米国留学で小売業を学んできた高橋義雄による改革に着手したが、昔からの番頭や手代たちから猛反発を食い、ストライキにまで発展する。
その危機を救ったのが日比翁助であった。人心掌握術に長け、上から下まで真摯に話を聞く翁助に、反発していた従業員も心を開いていく。今でいうプロデューサーの役を果たす高橋は日本初のPR誌を創刊し、流行を自ら作ろうと媒体を通じた広告宣伝を考案し、外へ向けて猛アピールをする。反対に翁助は内部をまとめ上げ、従業員の心を掴む。時代劇にあるような、客が店に入ると手代や番頭がオススメの商品を見せるだけ、という形から、客自身がショーウィンドウで好きな柄を見つけて買ったり、新しいデザインを自分で考案したり、という現在の形態に変えたのはこのふたりだった。
しかしその努力もむなしく業績は上がらない。三井グループの総指揮を取っていた三井物産の益田孝は三井呉服店を切り捨てることを決定する。三越という名は三井家越後屋から三と越を合わせたものだが、三井家の人間は誰も株を持たないことになった。
新生三越デパートでは適材適所、能力があれば、たとえ小僧であっても留学させる。優秀な人材がいればよそから引き抜き、社員教育を徹底した。それがやがてブランド化し、高級な店として認知されるようになる。ロンドンのハロッズを見本とし、店に一歩入った人はすべて平等のお客様。翁助自ら実践し、ドアマンまで勤める。そうやって心を尽くすことが士魂商才であると手本をみせた。
「今日は帝劇、明日は三越」という秀逸なコピーが勢いを示している。雑誌の取材では真っ先にピカピカに磨かれた便所に案内し、どなたでも気持ちよく使ってほしいと話し、いち早く客からのクレーム処理係も作る。クレームされた従業員にはきちんと訓戒して減給するが、ポケットマネーでその分を渡すような心配りをしていたのだ。
その隆盛の陰には慶応義塾の学友たちからの手助けがあった。いまではそれぞれが立志伝中の人たちが、少しずつ手を差し伸べ、翁助を助けた。
白木屋とのライバル関係、関東大震災の後始末、新店舗のコンセプト、イベント企画、そして燃え尽き症候群など、本書にはいろいろな角度からの読みどころが多い。今では当たり前に出入りするデパートの基礎はここから作られたのだ。
大手デパートの合併は一段落したようだ。三越と伊勢丹が一緒になったのには驚いたが、これによって新たな1ページが開かれるのかもしれない。その原点を検証するためにも、本書が有益であることは間違いない。
こういう女子は三越へ出かけたのだろう。田中大輔のレビューはこちら。
明治時代の企業家列伝。みんな一冊の本になるような人ばかり。仲野徹のレビューはこちら。
実は三越というとこの事件が真っ先に頭をよぎる。女帝と呼ばれた女の告白記。