会社の近くの本屋さんで、この本が「演劇」の棚に置かれていたのを見つけた。「第三舞台」の、鴻上尚史さんの本だ。手にとったのは、とある事情で、コミュニケーション能力にちょっと自信を無くしていたからだ。
30年間演出家をやりながら、ずっとコミュニケイションに関して考え、実践してきたことを書きました。
おお。あの、第三舞台の鴻上さんが、ずっと実践してきたことが書いてあるのか。
1つだけ分かったことがあります。それは、「コミュニケイションは技術だ」ということです。技術ですから、やり方次第でどんどん上達するんだ、ということです。
そうなのか。サッカーや野球みたいに、練習すればするだけ上達するのか。僕にも、「僕にもできた」と言えるのか!
パラパラとめくってみると、これは、読みやすい。広い行間に、ほのぼのしたイラスト。各章末には“レッスンのポイント”が書かれていて、学生時代に戻った気分だ。よく見れば、漢字にも、ところどころ読みがながふられている。読んでみるか・・・。レジに向かいながら、早くも演劇部に入部した気分である。私も、これから、「コミュニケイション」と言おう。勝手ながら、「ミ」と「ケ」にアクセントを置こう。鴻上先生!コミュニケイションがしたいです!
帰りの電車でページをめくる私を見た人がいたら、なぜ、この人は、その題名の本で、地味に「ほんとかよ!」などとつぶやいているのだろう、と思ったことだろう。さすがの鴻上さんであった。想像を超えたコミュミケイション論だ。あえて無理やり野球にたとえて言えば、「キャッチャーのミット目がけて正確にボールを投げる方法」が書かれているのかと思ったら、「キャッチャーがお相撲さんになっている場合もありますが、その時は大きな胸目がけて飛び込んでください」と書かれていた、というような、自分の思考フレームからちょっとはみ出した、そして、味わい深い本なのであった。
鴻上さんが行う演劇のレッスンには、「ムチャクチャ語で伝える」というものがある。2人1組になり、片方がムチャクチャ語で「明日7時からイタリア料理を食べませんか?」というような内容を、もう一人に伝えるレッスンだ。ムチャクチャ語とは、まさにムチャクチャな言葉で、「ふんがらべろこれ、あげだれごりばれ、どがでたごくりい」というようなものだ。一切のジェスチャーは禁止されている。
ペアになった片方が必死になって、ムチャクチャ語で話し続けると、信じられないかもしれませんが、30組くらいのペアの中で少なくとも1組は、「ひょっとして、明日、7時にイタリア料理を食べようって言ってるの?」と、ちゃんと伝わるのです。
ほんとかよ!そんなこと、タモリさんじゃないと無理かと思っていた。僕にもできたのか?必死に話したら「ひょっとして、お金貸して下さいって言ってるの?」などと、分かってもらえるのだろうか?本書によれば、貸してもらえるのだ。いや、分かってもらえるのだ。私たちが話す言葉には、「情報を伝える」という機能と「感情やイメージを伝える」という機能があって、効果的なコミュニケイションには、両方が必要になる。このムチャクチャ語のレッスンは、「情報を伝える」ほうを意識的にそぎ落とし、感情や表情を豊かにするためのレッスンである。感情や情報の両方を相手に伝え、相手からもさまざまな感情や情報が返ってきて、結果的に、自分と相手の情報や感情が変化していくことがコミュニケイションだ。このゴールに向かって、本書のレッスンは、「聞く」「話す」「交渉する」の順に進んでいく。
とはいっても、そこはムチャクチャ語で開幕した本書である。普通に進むはずもない。鴻上さんは、阿部謹也さんと山本七平さんを参考として、日本人は「世間」と「社会」という全く異なる2つの世界を生きていて、それぞれに適したコミュニケイションがあると指摘する。もともと江戸時代には「世間」だけが存在していた。村の掟というやつだ。明治になって、急に「社会」という概念がうまれた。でも、突然そんな理屈を言われても、受け入れられない。「世間」の考え方は、そっくりそのまま「企業」に引き継がれた。終身雇用や年功序列の誕生である。
「世間」には、長幼の序(年功序列)、共通の時間意識(同じような人生)、贈与・互酬の関係(あなたのため)、差別的で排他的(仲間でない人に冷たい)、神秘性(しきたり)という5つの特徴があり、それに適した聞き方や話し方がある。鴻上さんはここからさらに進み、現在の社会では「世間」は中途半端に壊れていて、そんな流動化した「世間」が「空気」と言われている、という。「空気」は、いろいろなコミュニティで別々に発生し、お互いに異なっている。だから、日本人全員の心をひとつにしようとしても、うまくいかない。でも、ある明確なテーマについて、それぞれの立場で手をつなぐことはできる。コミュニケイションとは、それぞれの価値観を踏まえ、お互いの違いを明らかにする作業のことだ。
鴻上さんは、今まで「建前」的な存在だった「社会」については、「世間話」のような「社会話」ができたらいいのに、と考えている。
震災の夜、見知らぬ人と話し合った空間を、日本伝統の「世間」が復活したととらえるか、日本人が「社会」に住む人達と会話を始めたととらえるかで、コミュニケイションの理想形は変わってくると、僕は思っています。
僕は、「社会話」がどんどん広がる日本になればいいと思っているのです。
「社会」という、いってみれば「世間」や「空気」が集合するプラットフォームにおいて、異なる物語を持つ人同士が、同じ時間を生きる存在として交錯する方法である。
我ながらいいことを言った。そういえば書き忘れていたが、本書は、おもしろく、味わい深いだけではなく、大変役に立つ本でもある。「丹田」を意識する発声法、観客席に「母港」をつくるプレゼンテーション技術、話す時の「3つのレベル」、ページングやフット・イン・ザ・ドア等の手法、など、「100人いるスタッフの1人1人と個別に一晩美味しい酒が飲めるかどうかだ」と教わってきたという鴻上さんの演劇の「知恵」が、この本には詰まっている。「ものすごく緊張する面接の時に、ドアをノックする前に心で唱える言葉」なんて、敢えて書かないが、面接官が同じことを考えていたらどうするかとも思うが、非常に感銘深いものであった。本書は、「交渉」のコミュニケイションの理想形として、近江商人の「三方よし」をあげる。そして私は、この本自体、売り方よし、買い方よし、そして、世の中の雰囲気がちょっと良くなる三方よしではないかと思ったのである。
中世には西洋にも「世間」があったという話や、山本七平さんの『「空気」の研究』の議論を踏まえ、「社会」に出会い、複数の共同体にゆるやかに所属する生き方を提案する。「空気」はいじめにもつながるが、鴻上さんのいじめについてのコメント(朝日新聞デジタル)は話題となった。
感情を知っていて、それを創造的に使用できる状態を「感情の教養」と呼び、豊かな教養をもつためにはどうすればよいかについて考える。鴻上さんは、楽しくなってください、と言われたら、3秒でなれるという。哀しみには20分かかるそうだ。
テクノロジーの進歩によって、「社会」はより大きな「場」という概念になり、「世間」や「空気」は1つのレイヤーになっていくのだろうか。内藤順のレビューはこちら。NHK出版 担当編集 福田さんのレビューはこちら。
無意識が行うコミュニケイションもある。レビューはこちら。