書店でひときわ目立っていた一冊である。とはいっても派手なカバーであったり、強烈な惹句が踊っているというわけではない。むしろ地味である。白地の余白が多く、ちょっと懐かしいような装丁、帯も、ツヤもない地味な色の紙に、こちらも懐かしいような書体で、抑制の効いた、シンプルな言葉が書かれているだけ。
しかし、梶井基次郎のレモンじゃないが、派手な色と感嘆符だらけの扇情的なコピー、似たようなカバーイラストの洪水のなか、まったく別の雰囲気を湛えたこの1冊の本が、目立つのだ。
なんといっても函に入っているのがいい。思わず手に取れば、実にほどよい重さが心地よい。函には2冊の本が収まっている。薄茶色の表紙にこれまた懐かしいような書体でそれぞれ、『回文の愉しみ』『ことばの遊びと考え』とある。
表表紙と裏表紙は紙を折って厚みを出し、見返しはそれぞれ、『回文……』のほうが青で、『ことばの遊び……』が赤。表紙に糊付けされていない「遊び紙」というやつで、表紙を大きくひらけば、本の「喉」にかがっている糸が見える。
「のど」の部分からはかがり糸がみえる。
こちらもとてもシンプルで、お金をかけている、とか、派手さや高級感を演出しているというのとは違うが、実はいろいろと考えぬかれているように思う(書名が『……遊び場。』だから、見返しは遊び紙? と深読みもしてしまった。それぐらい細やかな部分にこだわりがあってもおかしくない本なのだ)。
パラパラと本をひらけば書体の雰囲気ががなんとも懐かしい。なんと写植だそうだ。写植というのは、ネガに活字が記された文字盤の文字をひとつずつ拾って、文章を組み付けてゆく、DTP以前の組版のやり方。20年ほど前、私が出版社に入ったころの、部屋いっぱいに写植機が並んだなか、たくさんのオペレーターさんたちが黙々と、一文字ずつ拾って版下を作っていた光景を思い出す。
全体に醸す雰囲気は「昭和」である。本が重厚で高級なものから、次々と読み捨てられる消費財へと移行してゆく途中の時代に一瞬現れた、ささやかだが、日々を一緒に過ごす「もの」として、とても大されていた頃の一冊という感じだろうか。例えば、昭和の中産階級がローンで買った一戸建て。お父さんが奥さんを拝み倒して手に入れた、とびきり小さな書斎の書架にこの本がポンと置かれているイメージ。そして日曜日の午前10時、寝坊してきたお父さんがパラパラとページをめくっている光景が目に浮かぶ(実際子供のころ、そんな光景を見たような気がする)。
ということで、前置きが長くなったが、もう本屋で出会ったが最後、気がつけばレジに向かっていた。これは3000円は絶対に安い。
何よりいいのが、バーコードが函にも本にもなく、帯に記されていることだ。この装丁でバーコードがあったら、本書が湛える雰囲気がぶちこわしである。自宅に持ち帰り、帯をはずすして書架に置けば、バーコードから開放された本が、のびのび、ほっとしているよう見える。
とまあ、ここで中身に一切触れないままレビューを終わらせてもいいのだが(なにしろ、仮に中身がまったく駄作だったとしても、この「もの」として完成度を考えれば、絶対に買いの一冊なのだ)、それもあんまりなので続けよう。
書架から本書を取り出し、函から出す。前に一度レビューに書いたが、実は私は本の函にウルサイ。函から出すとき、スーッと、ゆっくり出てくることが肝要なのだが、この本はその点で完璧。右手で函を掴んで斜め下に傾けると、スーっとすべるように本が降りてきて、左手の手のひらにストン、と収まる。もうこれだけ気持ちがいい(なお、店にあるときはスリップが挟まっていて函にひっかかるので、この「スーッ」は確かめられない。買った人だけにしかできない体験なので本屋さんで試しても意味ないです)。
あ、そうそう、本の中身である。著者の土屋耕一は日本を代表するコピーライターだそうだが、回文の作り手としても知られている。というわけで、まずは和田誠編の『回文の愉しみ』から。土屋耕一が作ったさまざまな回文、そして投稿された回文を評したり、添削したりする回文実技講座、さらにエッチな「ばれ句」、アナグラムなどが次々と飛び出すのだが、まあ、日本語で徹底的に遊び倒していて、読んでいて最高に楽しい。いや「楽しい」なんて言葉じゃ表現できないぐらい、ものすごく楽しい(ああ、ここで土屋耕一だったら、この楽しさを表す、すごいコピーを考えつくんだろうなぁ)。
土屋耕一の回文は、単に上から読んでも下から読んでも同じ、というだけでなく、センスがあり、情景が浮かぶ。そしてその情景には情緒があり、またユーモアがある。うんうん唸りながら無理して必死に作られたような感じ(土屋耕一の表現だと「やっとの思いでひっくり返っている、小学生のデングリ返り」)がなく、実に軽やかである。
軍規違反 下士官ハイキング
妻歯痛モルヒネ昼も打つ始末
嫁の乳 気づく肉づき 義父(チチ)の目よ
酢豚つくりモリモリ食ったブス
立つよ波、大半吐いた みな酔った
千葉冷えて 浜荒れ 海女は手へ火鉢
虫の発つ 菜の香り 盛岡の夏楽しむ
消ゆる岸、いましばし舞いしきる雪
さらに気にったのは「蠅句」というもの。これはもちろん「俳句」をもじっているのだが、クローネンバーグの映画「ザ・フライ」(科学者の体にハエの遺伝子が混ざって、日々人間がハエと化してゆく話)の世界、すなわち、人がじわりじわりとハエ化していく道のりを俳句で綴るという、発想とだじゃれめいたネーミングが実にくだらない割には、とてつもなく才覚を必要とする遊びだ。
唐突に乱視はじまる朝曇り
複眼に映りはじめし、バラ四.五本
飛べと誘う飛ぶなと叫ぶ草いきれ
乳色の甘いガラスを舐めにいきたい
新涼のミルクにのばす黒い舌
濁音が出るだけの口夜の桃
ハエ化した後の最後の辞世の句も傑作なのだが、それは読んでのお楽しみということで。
ともあれ、日本語の天才である。同じく日本語の天才である詩人・谷川俊太郎のことを、佐野洋子は「日本語をすべて自分のものだと思っている傲慢な人」と言ったと思うが(うろ覚えです)、土屋耕一は、さしずめ「日本語をすべて自分のおもちゃだと思ってひたすらそれで遊び続けた人」とでもいえようか。
ところで、本書に収録された、読者の投稿を添削する土屋耕一の「回文実践講座」の雰囲気が何かにそっくりだと思っていたら、私が中高生のころ、週刊文春で連載されていて、毎週楽しみにしていた、糸井重里の「萬流コピー塾」だと思い至った。ということで、続くもう一冊、『ことばの遊びと考え』について。こちらは、土屋耕一の散文、コピーを、糸井重里が選び出し、まとめたもの。加えて「武玉川」という、短歌の下の句「五七五七七」の「七七」の部分を連ねた言葉遊びなども収録されている。
こちらも軽やかで小粋な土屋節が堪能できる。
もうおしまいですよ、とチューブが言っているのに、いやなに、もうヒトシボリと、力を入れるとふしぎなもので、1回分の歯磨がブラシの上に、にゅるりとまた出る。
で、いくらなんでも、この回限りだろうと思って、棚の上の定位置に戻さずにおくと、なんとこれを女の指がしごくと、またさらに一回分が、すでに飛行機の翼みたいに平べったくなったチューブから出現してくるから、驚いてしまうね。
こうなると、一本のチューブは、もはや歯磨きのためのパッケージと言うよりは、マジシャンのシルクハットのように見えてくるから、もう、あとからあとから歯磨が、まだ出る、まだ出る、と出てきてもびっくりしない。
たとえ、いちばん最後にチューブの中から白い鳩が一羽出てきたって、腰を抜かしたりしないぞ、私は。
ちょっと古今亭志ん生を思い出した。糸井重里が土屋耕一を「ことばの名人」と呼ぶのも納得である。
そしてこちらの一冊からは、仕事人としての土屋耕一、そして編者である糸井重里の厳しさのようなものが、軽やかな文章やコピーの背後からうかがえる。膨大な文章の山から、徹底して考えて選び出し、並べる順番を決める自体が、おそらく身を削るような作業であり、同時にそれは、凄まじく真剣な、糸井重里による「土屋耕一論」、さらには「コピーライティング論」となっているように思うのだ。その意味で、広告関係の人達にとっては、宝の山のような、素晴らしく役立つ実践の書であるかもしれない。
さてさて、冒頭でこの本について、昭和時代にかつてあったような本、だと書いたが、実は「あったような気がする」だけで、本当は、かつてこういったタイプの本は存在しなかったのではないか、とも思う。
昭和のころから、すでに多くの本は読み捨てられる消費財というベクトル上にあった。電子書籍も、単にその流れにあるだけの、「普通の本」。
そんなふうに考えると、むしろその流れを明確に意識したうえで作られた、手のなかに気持ちよく収まり、その重みが嬉しくなるような「もの」としての本こそが新しいと言えないか。
もしかしたら、本書は、過去と韻を踏んだ「未来の本」なのかもしれないのだ。