浜村淳には感謝している。いまこうしてHONZでレビューを書けるのも彼のおかげかもしれない。もう40年も前のことになるが、ノンフィクションの本がこんなに面白いものだということを最初に教えてくれたのだから。柳田邦夫の『マッハの恐怖』を紹介することによって。
もうひとつ、浜村淳は映画を見ることの楽しみを教えてくれた。『おいおい、浜村淳っていったい誰なんだよ。君の友達かい?』と、と~きょ~もんは尋ねるかもしれない。違います。関西では知らぬ人のない、映画評論家にしてラジオパーソナリティーのおじさんです。『ありがとう浜村淳です』というMBS毎日放送のラジオ番組を40年近くも平日の朝に続けている、といえば、その知名度もわかるだろう。
丸刈りの中学生時代から縮れ毛がふさふさしていた高校生時代にかけて、『ヒットでヒット バチョンと行こう』という、なんともベタなタイトルをもった大阪ローカルの深夜ラジオ番組を聞きながら勉強していた。曜日替わりのパーソナリティーは、桂三枝(いまの文枝)や笑福亭仁鶴、そして、小米を名乗っていた故・桂枝雀ら、錚錚たる大阪のお笑い芸人たちであった。
木曜日だけは少し趣が違った。浜村淳がパーソナリティーで、若者の悩みにはじまり、社会のこと、本のこと、そしてなによりも映画のことを熱く語り続けていた。番組開始当初のアシスタントは、東京へ出て役者になる前の小鹿ミキ、というのもよかった。と言っても、わからない人にはなんのことかまったくわからんだろうが。すみません、ここらから、いよいよ本題にはいります。
なかでもいちばん楽しみにしていたのは、ニニ・ロッソの『夜空のトランペット』をバックにはじまる『思い出は映画とともに』というコーナーであった。講釈師のような名調子で硬軟いろいろな映画を紹介してくれた。今と違って情報が少なかった時代、大阪の中高生にとって、浜村淳は映画の指南役だった。
浜村淳に紹介された映画をよく見に行った。というよりも、見に行った映画のほとんどは浜村淳に紹介されたものであった。その数多い中の一作が、伝説の反戦映画『ジョニーは戦場へ行った』である。ごく普通の高校生、浜村淳に紹介されなければ、この映画など見に行くことはなかったはずだ。
有名な映画なのでご存じの方も多いだろうが、第一次世界大戦で負傷し、壊疽により両手両足を切り取られ、目も見えず、包帯でぐるぐる巻きにされたジョニーが主人公の映画である。軍医たちはジョニーに意識はないと判断していたが、実は…、というお話だ。強烈なインパクトを持った内容と共に、原作者で監督でもあったドルトン・トランボの名は私の脳裏に深く刻まれた。
その後、トランボが脚本を書いた映画として、ケネディー暗殺事件陰謀説を描いた『ダラスの熱い日』、そして、スティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンという超豪華な二人が悪魔島からの脱出をはかる『パピヨン』、の二作を見た。『パピヨン』とて、40年近く前の映画である。いつしかドルトン・トランボの名前を見ることもなくなっていった。
数年前、もう一作、トランボが脚本を書いた映画を見ていたことを知った。それも何度も繰り返して見ていたことを。その映画は永遠の名画『ローマの休日』。トランボが、あまりに作風の違う『ローマの休日』の脚本家であるというニュースを聞いた時、腰を抜かした。トランボの作品であったと知らなかったのは、浜村淳が紹介していたのを聞き落としていたわけではない。ある事情によって、トランボはこの映画のクレジットに名前を出すことができなかったからなのである。
パン屋勤めや記者仕事をしていたトランボは、”本物の作家として身を立てるまで、食いつなぐ糧” として、映画の脚本を書き始める。第二次世界大戦前から戦中にかけては、トランボが最良の作品を生み出した “最も華やかな時代” であり、アカデミー賞の脚本賞にノミネートされるまでになる。しかし、“数は出しても、満足のいく作品を作り出した” わけではなく、脚本を書くことによって本物の作家としての能力が発揮できなかったのではないかとまでいわれている。小説『ジョニーは戦場へ行った』はそんな時代に書かれた小説だ。
そして戦後。マッカーシズム、すなわち、米ソ冷戦下『赤狩り』の時代に、ハリウッドにおける共産主義者、ハリウッドテンの一人として、非米活動調査委員会に呼び出される。実際に共産党員であったトランボは、言論の自由と平和的な集会を保証する米国憲法第一修正条項を楯に証言を拒む。といっても、ただ黙っていたわけではない。簡潔に答えるように迫られた時には、
“非常にたくさんの質問にイエスやノーで答えられるのは間抜けな奴か奴隷だけだ”
と切り返し、証言の最後には、
“これは米国の強制収容所の始まりである”
と果敢に締めくくった。
トランボは最大の自負心と勇気を持って闘ったのだ。そして有罪。
一年間の懲役の後も、ハリウッドへの復帰は許されず、メキシコに渡る。そのメキシコ時代にも、トランボは脚本を執筆し続け、他人の名前を借りて発表することにより、映画作りに参加した。自分で書くだけでなく、たくさんの脚本作成の手助けもした。しかし、自らの影響がどれだけあったかを秘すために、どの脚本に関与したかをトランボ自身は明らかにしていない。そのために、正確な数はわかっていないのであるが、何らかのかたちで関わった脚本は相当な数にのぼるようだ。
その中の一作が、ウィリアム・ワイラー監督によりオードリー・ヘプバーン、グレゴリー・ペック主演で制作された不朽の名作『ローマの休日』なのである。友人のイギリス人脚本家イアン・マクレラン・ハンターの名を借りて発表されたこの作品は、ヘプバーンの主演女優賞と共に、アカデミー賞の脚本賞を受賞する。
後に、真の脚本家がトランボであったことが明らかにされ、アカデミー賞委員会は、1993年、トランボに脚本賞を授与。そして2010年には、正式に、トランボが脚本家であったことが全米脚本家組合によって認められた。これをうけて、最近のDVDでは、脚本家としてダルトン・トランボの名がクレジットされている。
トランボの人生が綴られた本であるが、その構成は一風変わっている。映像作家である著者は、トランボが脚本家として関わった映画を公開順に紹介し、その内容からトランボの心情を推し量ることによって進めていく。その語り口は浜村淳もかくやと思わせるほどに見事であり、ほとんどのトランボ脚本作品を見たかのような気にさせてくれる。誉めるばかりではない。『ジョニーは戦場へ行った』は小説としては成功しているが映画としてはいまひとつである、などと、いたらないところは適切に指摘しながら、次々と読み解いていく。
そして、すべての作品を通じてトランボが何よりも示したかったのは名誉である、という結論にいたる。脚本だけではない。トランボ自身が生きていく上で最も大切にしたものも、名誉を守る、ということだったのだ。この本に描かれているその生き様は、トランボがしたためた脚本と同じように、いや、それらたくさんの脚本のエッセンスをすべてつめこんで作られた超大作のように面白い。
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とある事情から、この作品には著作権が存在しない。だからこその激安、421円!
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浜村淳のことを深く知りたい人のために。自伝です。
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映画評論といえば淀川長治。これまでに読んだ『私の履歴書』あまたの中でも、まちがいなくトップクラスのおもしろさ。絶版ですか…
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